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2008年10月

未来をぼくらのポケットに◆手塚治虫『奇動館』

手塚治虫の作品からもう一つ。

「人間はまだまだりこうになる……/月や星へも行けるじゃろう……」

第二期『ライオンブックス』シリーズの一編、『奇動館(『週刊少年ジャンプ』1973年2月19日号掲載)からのセリフです。封建制度がすみずみまでいきわたり、人々を支配していた江戸時代。隠密の好太郎は密命を受け、子どもたちを集めては何やら怪しい活動を続けているらしい私塾、奇動館に教師として潜入します。生徒は不良やなまけ者、スケバンなどのはなつまみものばかり。授業といえば、エレキテルの実験や香水作り、気象について調べたりと、それぞれがやりたいことを自由に研究しています。そうした自由な授業に惹かれながらも、子どもたちのために熱気球を作った館長の老教師を、兵器製作の罪で江戸へ連行しようとする好太郎。生徒全員を気球に乗せたあと、最後に好太郎を乗せた老教師が、彼に向かって語りかけるセリフが先のセリフです。

手塚治虫とその作品に対する評価は、死後20年のうちに多くの研究が発表され、それらの成果から、かつての「手塚ヒューマニズム」と呼ばれた一面的な評価が誤りだったことが実証されつつあります。手塚治虫が戦後最大のマンガ家で、後輩に与えた影響は絶対的であったことは認めつつも、けっして聖人君子などではなく、常に自作に対する世間の評判を気にし、新人作家の才能に嫉妬し続けていたことも、本人の著作や関係者の証言から明らかになりました。作品にもみずからの戦争体験が色濃く影を落とし、残酷で、悲惨で、時に救いようの無い結末だったりして、手放しの人間賛歌どころかデモーニッシュな面が際立つものが多く残されています。

それでもなお、私が、人間や世の中のどうしようもない馬鹿さ加減、救われないおろかさに絶望し、心萎えたときに手塚治虫の作品を読み返すのは、いずれの作品のどこか隅っこに、はっきりと、あるいは何気なく、人間とその未来に対する希望と信頼が隠されているからだと思います。『火の鳥』未来編のラストでつぶやく火の鳥の言葉こそ、手塚治虫が私たちに伝えたかった心からのメッセージだったのではないでしょうか。

『奇動館』は、下降中の事故で命を失った老教師の墓の前で泣き崩れる生徒たちに向かって、好太郎がふたつ目の気球を共に作ろう、と呼びかけるところで終わっています。そう、未来に対する希望は、こうやって引き継がれていくのです。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『奇動館』(手塚治虫作画、『ライオンブックス』2〈『手塚治虫漫画全集』62〉所収、講談社、1977年)

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手塚治虫を、もう一度◆手塚治虫『ガラスの脳』

今年2008年は、手塚治虫生誕80年の年。早いもので1989年2月9日に手塚治虫が60歳で亡くなってからもう20年近くが過ぎてしまったのですね。この20年の間に、手塚治虫の跡を追うように、藤子・F・不二雄(96年没、62歳)、石ノ森章太郎(98年没、61歳)、赤塚不二夫(08年没、72歳)らトキワ荘メンバーをはじめ、横山光輝(04年没、69歳)、永島慎二(05年没、67歳)と、昭和を代表するマンガ家たちが次々に亡くなっていきました。長年にわたって昏睡状態が続いていた赤塚不二夫の72歳は別としても、誰もが60歳代で亡くなっています。手塚治虫が亡くなった当時、「締め切りに追われる不規則な生活が続き、慢性的なストレスに蝕まれている流行マンガ家の60歳は、普通の人にとっての80歳と同じだ」というようなことを言っている人がいましたが、こうした事実を見てしまうとあながち想像だけのシロモノとも思えません。

私が手塚治虫の作品を意識したのは、『週刊少年サンデー』で連載されていた『白いパイロット』(1961年)が最初だと思います。もちろんそれ以前にも手塚治虫の作品は目にしていたはずですが、はじめて雑誌を毎号購入し連載ものとして楽しんだ作品が、この『白いパイロット』でした。サンデー派だった私は、同誌上で引き続き『W3』『バンパイヤ』『どろろ』といった手塚治虫の少年マンガの傑作と出合うことになります。まだ幼いうちに出合った手塚治虫の少年マンガが、その後の私の人生観に大きな影響を与えたことは間違いありません。『W3』のラストのセンス・オブ・ワンダー、『バンパイヤ』での悪役ロックの名演技など、どれも忘れられない思い出になっています。

しかし、こうした私と手塚治虫の蜜月時代も長くは続きませんでした。60年代末から始まる劇画ブームは手塚塚治虫の活動にも影響を与え、発表誌も少年マンガ雑誌から青年マンガ雑誌へと移っていきます。こうした青年マンガ雑誌を読むことにまだ抵抗があった私が、手塚治虫のマンガと再会できたのは、やはり『週刊少年サンデー』誌上でした。単発で不定期に掲載された『0次元の丘』(1969年)、『ガラスの脳』『ゼフィルス』(1971年)などがそうでした。これらの作品について後に手塚治虫は、「虫プロのごたごたがおさまった70年代の中頃にかいたもので、従来の手塚流SFから一歩ぬけ出した作品をかこうと努力した時期の作品」(『タイガーブックス』8(『手塚治虫漫画全集』128)あとがき)と解説しています。

すでに思春期にはいっていた私は、この青春と呼ばれる季節に憧れつつも、けっして思い通りにならない現実に辟易とし、またみずからの存在にコンプレックスをかかえたまま、それでも異性に対する感情だけは日々膨らんでいくという悶々たる毎日を送っていました。そうしたある日に、『週刊少年サンデー』1971年2月21日号でこの『ガラスの脳』に出会ったのです。母親の胎内で大事故にあい17年間眠り続けた少女・由美と、彼女を眠りから覚ました少年・雄一の、奇跡の五日間を描いたこのマンガは、私にとっての大いなる救いとなってくれました。悲劇的な純愛のゆくえ、醜い大人の欲望に対する怒り、そして何より、少年と少女の生年が私と同じ年という設定が親近感を持たせてくれたのです(いや、逆に自分と同い年の彼らだからこそ、二人にどうしようもない嫉妬を羨望を持っていたのでしょう)。

「人生ってなにかしら……/なんのために人間って生まれてきて死ぬんでしょうね?」と問う少女に、少年はこう答えます。

「現在を生きるためだろ?/そして青春は……/現在生きてることをたしかめるためにあるんだってさ」

このセリフが正しいのならば、私はいつ、何歳の頃に「青春」と呼ばれる季節を過ごしたのでしょうか? ただただ流されていくだけの毎日を過ごしている今の私は、本当に現在を生きていると言えるのでしょうか? それがかなわぬ夢であることは十分わかっていても、生き続けて80歳になった手塚治虫に、もう一度、その答えを描いてもらいたいと思います。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『ガラスの脳』(手塚治虫作画、『タイガーブックス』3〈『手塚治虫漫画全集』123〉所収、講談社、1978年)

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