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2008年11月

続・変わる季節に◆五木寛之『恋歌』

昔の五木寛之の作品を読んだことのない最近の人は、五木寛之と聞けば、寺巡りをしてその感想を書いたり、インド宗教にかぶれた仏教論を書いたり、あるいはしたり顔で人生を語ったりする、そんなおじさんだと思っているのでしょうね。そう思ってしまうのも当然なのが、ご隠居芸でお茶をにごしている五木寛之の悲しい現実です。

五木寛之は、私が初めて個人全集をそろえた作家です。その作品に登場する魅惑的なターム――思い出すままに挙げてみるならば、たとえば、ジャズ、ベトナム戦争脱走兵、白夜の北欧、鈴鹿8耐、内灘闘争、、ムンク、ダブルクラッチなど、それまで読んできたどんな小説でも取り上げなかった現代性に富んだ内容に、たちまち私は魅了されてしまいました。かつて五木寛之の作品や言動から圧倒的な影響を受けた私にとって、物語を書かなくなって久しい五木寛之からは、一つの季節の終わりを感じてしまいます。

稀代の物語作家(ストーリーテラー)――これが五木寛之を言い表すもっとも相応しい言葉だと思います。みずから純文学からの訣別を宣言し、時代の風をはらみ、60年代末から70年代を疾走した初期の作品群。いっときの休筆期を経て、より濃密な伝奇性を身につけ、時代の危機感を描き始めた中期。国内外を舞台にした青春小説、恋愛小説、あるいは非情なマスコミや芸能の世界を描いた現代小説、歴史の翳に隠された謎を抉り出す伝奇小説と、ジャンルや素材はさまざまですが、すべてに流れているモチーフには、幼い日の外地からの引揚げという原体験――デラシネ(根無し草)という生き様が色濃く影を落としていると思います。作品の多くがアンハッピイエンドで終わっていること――男たちの野望は頓挫し、女たちの愛は報われず終局を迎えるところに、どうしようもない虚無感みたいなものを感じてしまいます。

初期の傑作『恋歌(1967~68年)は、そうした五木カラーがよく出ている作品です。引揚げの途中で外国兵にレイプされた体験を持つ冬子、現代的女性を体現するキャリアガールの直子、直子の妹で奔放に生きる亜由美。過去・現在・未来をイメージするこの三人の女性の生き様、三者三様の愛の行方を通して奏でられるフーガをつらぬくものは、決して消すことができない戦争の影なのです。全編をつらぬいて流れる「サンライズ・サンセット」のリフレインが、時代とともに変わっていく人間の運命を象徴し、本当に格好よく、恋愛が何なのかも知りはしない私ですら、ただただうまいなあと感心したものです。

すべては変る。人生も、愛も、自然も。だからこそ人間はお互いに求め合うのだろう

ラスト近く、内灘の砂丘で海向かって立ち、変わるものと、変わらないものとに思いをはせる亜由美。唯一この物語で希望の象徴である亜由美の決心に、私は救われた思いがしました。未来への一歩を彷彿とさせる、美しくも力強いシーンに、上の言葉がかぶります。

転がる石であり続けることを望み、一つの型にはまることをかたくなに拒否する姿勢。時代や社会の流れに身を任せ、そのつど臨機応変に対応する生き方。変わってしまった五木寛之が悪いのか、変わらないでいてくれることを望む読者がわがままなのか。物語をつむぐ才能は無限のものであるのか、才能の枯渇をテクニックでおぎなうことは悪なのか……。そんなことを思いつつ、私は、変わることを恐れず、変わらないことにこだわらず、ひたすら自分らしく生きていけたらと思っています。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

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出典:『恋歌』(五木寛之著、『五木寛之作品集』12、文芸春秋、1973年)

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変わる季節に◆荒井由実「『いちご白書』をもう一度」

営団地下鉄の神保町駅からJR御茶ノ水駅に抜けるコースはいくつかあります。もっともポピュラーなのが靖国通りを駿河台下交差点で左折して明大通りを上っていくコースでしょうが、私の好きな散歩コースに、交差点手前で左折して次の小学校の角を右折し、錦華公園脇の坂道を登り、明治大学校舎や山の上ホテルを横に見て、とちのき通りかかえで通りを経由するコースがあります。秋も深まると、坂道の途中にある大銀杏がみごとに色づき、坂道は黄金色の落ち葉で敷き詰められます。この錦華公園脇を通るたびに、私はあの有名なエピソードを思い出してしまいます。

70年代のまだ早い時期、長髪の大学生が二人、お互いの髪の毛をはさみで刈りあっていたのを一人の早熟な少女が目にします。このシーンは少女に強い衝撃を与え、のちに歌手となった少女は、この日の情景をもとに一曲の歌を作ることになります。そう、誰もが知っている、荒井由実「『いちご白書』をもう一度」誕生伝説です。

荒井由実から曲の提供を受けたバンバンのこの歌を聞いたのは、大学生のころ。社会人になるまでに許された4年間の執行猶予、その長いようで短いモラトリアムの、ちょうど冬が訪れる前の小春日和のような毎日を生きていた私に、この歌はすぐそこに迫っている逃れようのない現実を突きつけたのでした。実際は、「就職が決まって」髪を切るのではなく、「就職活動を始める」ために髪を切るのですが、長髪からリクルート・カットに整髪し、ジーンズから背広姿に着替え、会社訪問を始めなければならないという現実は、怠け者の私にとっては耐えられないものでした。

「就職が決まって髪を切ってきた時/もう若くないさと/君に言い訳したね」

「転向」という言葉がまず浮かびました。季節が変わるように人はそんなに簡単におのれの生き方を変えていいのだろうか? それこそ「変節」であり、それまでの自分に対する裏切りではないのか? すぐそこまで来ている自分の変わり身の時を嫌悪しつつ、なすすべもなく毎日を過ごす私でした。

そんなわけで、私はこの歌が大嫌いです。あれから30年以上が過ぎて、今でも懐かしの歌番組などでバンバンの生き残りの、いい年をしたおっさんのばんばひろふみがこの歌を歌うとき、「いい加減にせいや」と、たまらないやりきれなさに包まれてしまうのです。甘っちょろい失恋話のオブラートで包み込むことで、若さゆえの「転向」や「裏切り」を美化することはやはり許されない行為だと思うのです。だけど……。

心の中で唾棄すべき歌と拒否しながらも、それでも私がこの歌に惹かれてやまないのは、荒井由実の歌つくりのうまさによるものでしょう。哀愁感あふれるメロディラインはもちろん、あえて思い出の映画を「いちご白書」にした叙情性などが、学生運動の余燼がくすぶっていたあの時代を生きた私たちをとらえてしまったのです。そして、理想と現実のギャップを知り、ほんねとたてまえの使い分けを覚えることで、大人になっていく私たちの悲しい現実を描ききったことで、この歌は普遍的な生命を得たのではないでしょうか。

心のどこかでこの歌が大好きだとつぶやくもう一人の私がいます。拒否しながらも受け入れてしまう……そうしたアンビバレンツが、この歌の魅力となっているのではないでしょうか。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:「『いちご白書』をもう一度」(荒井由実作詞・作曲、バンバン歌唱、1975年)

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