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2009年3月

君にモクレンの花を贈りたい◆庄司薫『白鳥の歌なんか聞えない』

この季節、例えば思わぬ深酒に酩酊した深夜、後悔の念にさいなまれながらの帰宅の途中、ただよってくる甘い香りにふと足を止めることがあります。春の訪れを告げるような、どこか懐かしい香りに見上げれば――そこには、夜目にも白いハクモクレンの花が、今を盛りとばかりに枝いっぱいに咲き誇っているのです……。

映画会社の東宝は、庄司薫原作の「薫くんシリーズ四部作」のうち、第一作の『赤頭巾ちゃん気をつけて』と、三作目この『白鳥の歌なんか聞えない』の二作を、それぞれ1970年と72年に、森谷司郎監督と渡辺邦彦監督で映画化しています。両方とも主人公の薫くんは岡田祐介が演じ、ヒロイン由美ちゃんは第一作では森和代(のちの森本レオ夫人)が、第二作では公募で選ばれた新人、本田みちこが演じています。ところで、私と「薫くんシリーズ」との出会いは小説版が初めてではなく、実は1972年公開の映画版『白鳥の歌なんか聞えない』が最初でした。当時、高校生だった私は、友人(もちろん男性)と二人で、熊井啓監督、栗原小巻と加藤剛主演の『忍ぶ川』を見に行ったのです。まったく何を考えて男二人で出かけていったのかわかりませんが、その『忍ぶ川』との同時上映が『白鳥の歌なんか聞えない』でした。お目当ての『忍ぶ川』にはもちろん感動しましたが、『白鳥の歌なんか聞えない』からはそれ以上の衝撃を受けました。

加山雄三の「若大将シリーズ」に代表されるように、青春映画の中でも都会的センスにあふれた明朗快活な作品を得意としていた東宝は、当時、大きな曲がり角に立っていました。時代の趨勢は、毒気のない明るいだけの青春映画を時代遅れの過去の遺物と葬り去ろうとしつつあり、同じ青春映画でもハッピーエンドで終わるだけの作品よりも、もっと問題意識を持った作品や反体制的な色合いを明確にした作品が求められるようになっていました。こうした東宝青春映画の変遷については、別の機会にあらためてお話ししようと思いますが、『赤頭巾ちゃん気をつけて』『白鳥の歌なんか聞えない』の2作は、東宝青春映画過渡期の作品の好例としても位置づけられるのだと思います。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』の約一月半後、1969年3月19日から24日までの6日間を舞台にした『白鳥の歌なんか聞えない』のテーマは、ずばり「生と死」です。そして、前にもお話ししましたようにヒロインの由美ちゃんの魅力が四部作中もっともよく描かれているのが、この作品だと思います。

冬が終わりすべての生命が芽生える春のただなかにあって、そこに背中合わせにある死の存在……。ふとしたきっかけで、死の床についている全身これ知性の塊みたいな老人の介護をすることになった由美ちゃんには、いつものような明るさや、薫くんをリードするしっかりしたところもありません。それどころか、情緒不安定で、ちょっと変なのです。突然、縫いぐるみの耳に隠して「あなたがとてもとても好きです」なんていうラブレターまがいの手紙を渡したり、心配する薫くんの肩に頭をもたせかけながら、

「沈んでいく大きな夕日に向って草笛を吹くような気持」

などとつぶやいたりします。そして、何と薫くんに体をあずけようとすらするのです。おせんちと言えばおせんちなのでしょうが、それでもいつもの由美ちゃんとは確実に違っています。そう、由美ちゃんは、初めて身近に接した「死」の甘美な誘惑にからめとられ、「死」の美しさに魅せられ、そして何より「死」の恐怖に怯えていたのです。

映画版でこの由美ちゃんを演じた本田みちこが絶品でした。ストーブの炎の照り返しを浴びて先に書いた名セリフをつぶやくシーンの、その横顔の神々しさ。あるいは、死の恐怖から逃れるために薫くんに身を任そうとベッドに横たわり、みずから上着を脱いでいくシーンの、その乳房の初々しさ。こんな可愛い女の子を見たのは、本当に生まれて初めてでした。小説に描かれた由美ちゃんに理想の女性像を見ていた私にとって、その由美ちゃんをみごとに体現した本田みちこは、そのまま私にとっての憧れの女性となりました。その後、彼女は『影狩り』『狼の紋章』など数本の映画に出演はしますが、1976年の『激突! 若大将』を最後に芸能界を引退します……。

さて、ここで由美ちゃんに関するトリビアを紹介しましょう。

森和代と本田ゆみこのほかにも、由美ちゃん役を演じたもう一人の女優さんがいることを知っていますか? NHKが夜の8時45分ころから毎日放映していた連続ドラマシリーズの一篇に、「薫くんシリーズ」3作を合わせて再編成したテレビ版『赤頭巾ちゃん気をつけて』があったのです。このテレビ版では、学習院女子高校を卒業したばかりの仁科明子が、由美ちゃんを演じていたのです。このあと仁科明子は、その才能を認められ、倉本聰や木下恵介脚本のドラマに多く出演するようになります。タクシーに乗っても一人では行き先すら言えないくらいのお嬢さんだった彼女が、のちに共演した松方弘樹とのあの電撃的結婚にいたるなんて、この時点で誰が想像できたでしょうか……。

おっと、閑話休題。

滅びの美学、とでも言うのでしょうか。沈んでいく夕日や、はかなく散る花、死んでいく素晴らしい知性などの罠に魅入られてしまった由美ちゃんは、とうとう裸身となって薫くんをベッドに誘おうとします。「据え膳食わぬは……」などとオヤジくさいことは言いっこなし。こののっぴきならない状況にあって、由美ちゃんを抱きしめたいと思う反面、死の影を怖れるような形では絶対にいけないんだと必死に自制する薫くん。その葛藤の中で、ついには手も触れないままに射精してしまう、この永遠の名シーン。

これはやはり罠なのだ。愛の姿をしてぼくたちを誘いこむ罠なのだ。ととえどんなに馬鹿げていると言われようと、つまらない若者のこだわりと言われようと、そんな他人の死から、いや、この夜をひそかに充たす「死」から恩恵をこうむるようなことはどうしてもしたくない……。

   
そして映画は、小説と同じように、深夜、薫くんが由美ちゃんの家の玄関脇に大きなハクモクレンの枝をささげるシーンで終わります。

ふたたび、現在に戻って、2009年3月、早春の深夜。かつて由美ちゃんの感性に涙し、本田みちこに憧れた私は、すっかり中年になり、酔ってふらつく体を壁にあずけて咲き誇り、甘い香りをただよわせるハクモクレンの花をみつめています。人通りも絶えた深夜の住宅街にたたずむ私の脳裏に、ふいに、ほんの一瞬、小説や映画のようにジャンプしてハクモクレンの枝を折っている自分の姿が浮かびました。でも、薫くんが万感の思いを込めて由美ちゃんに贈ったハクモクレンの花を、はたして今の私は誰に贈ったらいいのでしょうか?

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

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出典:『白鳥の歌なんか聞えない』(庄司薫著、中央公論社、1971年)

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翻訳家たちの挑戦◆ポール・ニザン『アデン・アラビア』

21世紀に入ってから、いわゆるモダン・クラシックと呼ばれる欧米小説の新訳・改訳作業が行われることが増えてきました。

1950年代に欧米の作家によって書かれた、同時代を舞台にした作品は、60年代に翻訳、出版され、多くの読者に迎えられました。インターネットなど夢想だにしない、情報の入手が書籍や雑誌など一部の媒体に限られていた時代のことです。作品に描かれた欧米人の風俗や価値観、生活のありようなどは、カルチャーショックとなって当時の日本人に大きな影響を与えたのでしょう。ある作品は社会現象を巻き起こし、ある作品は若者たちのライフスタイルを変え、またある作品はそこに描かれた描写をめぐって論争を生みました。こうした小説の翻訳に携わったのは、その多くがまだ若い気鋭の翻訳家たちでした。ドイツ文学の専門家と言えばT、ロシア文学の訳者と言えばY……といったように、すでに大家として名をなした翻訳家ではなく、たとえ有名ではなくとも進取の機運にあふれた研究者や翻訳家たちが、こぞってこれはという作品の紹介に力を注いだのです。

そして、30余年がすぎた21世紀冒頭。当時の読者のうち長じて小説家や研究者、翻訳のプロになった人たちによる、満を持しての旧版の見直し作業が始まりました。それは、旧版へのオマージュであると同時に、「名訳」と評価が高い旧版への「挑戦」でもあったのです。

たとえば、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)の冒頭の一行。1964年の野崎孝による旧版では、

もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ……

とあるのに対し、2003年に同じ白水社から刊行された村上春樹による新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で、それは、

こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。……

となっています。

旧版を訳した野崎孝の最大の功績は、一つに原題『The Catcher in the Rye』を『ライ麦畑でつかまえて』という絶妙の邦題に意訳したことです。日本人に親しまれている俳句の五・七・五、ほぼその後半十二文字に合わせたリズミカルな書名は、同じ調子のダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』と並んで、名邦訳のベストに挙げられると思います。そしてもう一つの功績が、全編を通じての主人公の一人称語りを、徹底した若者言葉による口語体で訳したこと。ただ残念なことに、40年以上も経ってしまうと、日々変化している若者言葉やスラングの多様化に追いつかず、その言い回しや固有名詞にいささかの古さや違和感を感じてしまいます。このあたりが、全時代対応型のカチッとした文語体ではない、口語体ゆえの弱点なのでしょう。村上春樹の新訳版にも、そうした口語体ならではの苦労が随所に見受けられます。要は、旧約・新訳のいずれが良い悪いではなくて、野崎版は野崎版、村上版は村上版として読み比べをするなど、それぞれを楽しむことだと思います。

次に、1953年に原書が刊行されたアーサー・C・クラークのSF小説『幼年期の終わり』。福島正実の訳で1964年に早川書房から『ハヤカワ・SF・シリーズ』の一冊として刊行され、以来、つねに読者アンケートではベスト10の上位常連となっている正統派SFで、私も高校生のころに読んで感動を受けました(ちなみに福島版では『幼年期の終り』)。この作品もあいだに沼沢洽治訳の創元SF文庫版(1969年、書名は『地球幼年期の終わり』)をはさみながら、2007年に池田真紀子による新訳版が『光文社古典新訳文庫』に収められました。なお、クラークは1989年に第1章の冒頭、プロローグにあたる部分を、東西冷戦下の宇宙開発競争の時代を舞台にした初版から、米ソ共同の火星探査計画が行われている時代へと、設定自体を大改稿しているので、訳者の違い以前に、内容そのものが大きく変わっています。

そして、今回の名セリフ、ポール・ニザン『アデン・アラビア(1931年)冒頭の、あの有名な一行。

ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。

新訳版の仕掛け人、池澤夏樹によれば、「二十世紀のフランスの小説の中で最も有名な書き出し」の二つのうちの一つがこの書き出しで(もう一つは、カミユ『異邦人』の「きょう、ママンが死んだ」)、「これが有名になったのは、要するに誰もが二十歳の時にこう思うからだ。青春は美しいという老人たちの紋切り型の賛辞に対する当事者の強い反発」だからだと続けています(『世界文学全集』Ⅰ-10、河出書房新社、2008年)。

篠田浩一郎によって訳され、1966年に『ポール・ニザン著作集』第1巻として刊行された初版のこの一行は、私を圧倒的に打ちのめしました。この言葉を知ったのは、まさしく私が20歳前後のころ。国や市が勝手に祝ってくれる成人式なんてナンセンスと参加をボイコットする一方で、20歳、という年齢には妙なこだわりを持って、「20歳のうちに童貞を捨てるのだ」などと変な誓いを立てたり、そうかと思えば、高野悦子の『二十歳の原点』をはじめとする20歳くらいの男女が登場する本やマンガを手当たり次第、読み漁っていました。今にしてみれば、この時期の思い出は、どれもこれもみじめでつまらないものばかりですが、『アデン・アラビア』冒頭の一行をつぶやくことで、きれいごとばかりを口にする大人たちのうさんくささに憤り、自分なりの異議申し立てをしていたつもりだったのでしょう。

今年になってからも、朝吹登水子の1955年の名訳で知られるフランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』が河野万里子による新訳として出版されるなど、新訳・改訳ブームはまだまだ続きそうです。とまれ、およそすべての学問や研究は、日々進化を重ね、今日の新発見・新説も明日には簡単に塗り替えられてしまうことはたびたびです。それでも、旧来の成果をベースに、あるときはそれを否定し、あるときはそれを継承して、学問や研究は発展してきたわけですし、翻訳という営為もまたそうであるのでしょう。

あっ、そうそう。小野正嗣による新訳版の『アデン・アラビア』の冒頭は、次のとおりです。ここまで人口に膾炙された名文となると、さぞかし大変な作業だったのでしょうね。

僕は二十歳(はたち)だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『アデン・アラビア』(ポール・ニザン著・篠田浩一郎訳、『ポール・ニザン著作集』1、晶文社、1966年)

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