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2009年5月

阿修羅、1300年の孤独◆光瀬龍『百億の昼と千億の夜』

現在、東京国立博物館で特別展「国宝阿修羅展」が開かれていますね。本来は奈良市の興福寺に安置されている阿修羅立像を東京で見ることができることは、首都圏や関東在住の仏像好きにはたまらない機会だと歓迎すべきことなのでしょうが、本当にこれでいいものなのでしょうかと疑問に思ってしまいます。

「出開帳」(『広辞苑』によれば「本尊など仏像類を他所へ出して公開すること」とあります)自体は、それこそ交通手段もままならない江戸時代から、信心深い江戸の庶民のためのありがたい行事でしたが、昨今のそれは、どうも初めに金儲けありき、みたいな臭いがぷんぷんとして何だか怪しい雰囲気を感じてしまうのは私だけでしょうか。

東京・京都・奈良・九州の四つの国立博物館が独立行政法人化し、自分の博物館は自分の力で集客、集金をという方針に転換して以来、国内有数の箱物としてのキャパシティ、大都市圏にある立地条件を背景に、一気に古寺名刹の国宝レベルの仏像を移しての「出開帳」がブームになったと思います。そもそも仏像は信仰の対象であって、収められているお寺などを訪ねて、その置かれている環境を含めて拝観するのが自然なのでしょうが、仏像を美術品として研究対象とするアカデミックな考えのもと、明るい照明の当たった衆人環視の条件下で鑑賞する考えも一般化しています。どちらが正しく、どちらが間違っているということはありませんが、ただ本当にお金儲けのためのみに仏像に行脚願っていると、いつか仏罰が下ることでしょう。ああ、くわばら、くわばら。

さて、阿修羅立像です。みうらじゅんをはじめ、阿修羅立像の熱狂的ファンは多いようですが、私もこの像は好きな仏像のトップ10上位にランクしています。阿修羅立像の存在を知ったのは、おそらくは歴史か美術の教科書なのでしょうが、今にも泣き出しそうな表情を見て、それまで抱いていた阿修羅に対するイメージが音を立てて崩れていくのを感じました。「何て寂しそうな顔をしているんだろう……」およそそれまで「阿修羅」という言葉から受けていた先入観――ジョージ秋山のマンガ『アシュラ』からの刷りこみも多かったのでしょうが、凶暴で残忍という先入観が誤りだったことを知ったのです。そして、出会ったのが、光瀬龍のSF小説『百億の昼と千億の夜』でした。

高校生の頃、私は日本人作家によるSF小説にのめりこんでいました。小松左京の膨大な宇宙的知性・教養に圧倒され、筒井康隆の狂気と反権力のブラック感覚に麻痺し、平井和正の救いようのない暴力に打ちのめされ、そして、光瀬龍が描く、時の流れの中にあってあまりに卑小な人類とその文明の存在に震えたものでした。代表シリーズの「宇宙年代記シリーズ」や長編『たそがれに還る』などで繰り返し語られた、永劫の時の流れと刹那に生きる人類との対比は、なぜか当時の私の気持にぴたりと当てはまり、その東洋的無常観とよばれた思想は、私がのちに歴史を専門的に学ぶ一つのきっかけになっていくのです。

その光瀬龍の初期の到達点とも言える長編小説がこの『百億の昼と千億の夜』でしょう。何しろ時間レベルで言えば何千年、何億年というレベルを超えるスパンの中で語られるわけで、登場するのはナザレのイエスや悉達多太子、アトランティス大陸のオリオナエ、そして阿修羅王(作品中では「王」が付されています)ら時代も地域も越えた世界で生きる伝説上の者たち。56億7000万年後にこの世界に降臨し、人類を救済すると伝えられる弥勒思想、全宇宙の創造主にして破壊王の転輪王。硬質でさらさらに乾ききった光瀬龍特有のハードボイルドな筆致でつづられる、時空を越えて世界の終焉に迫る彼らのめくるめく思索と冒険の旅に、私は魅了されました。

作中、のちの仏陀、悉達多太子が阿修羅王と出会うシーンがまた素晴らしいのです。

はためく極光(オーロラ)を背景に一人の少女が立っていた。「阿修羅王か」少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。「そうだ」少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それに似つかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。「阿修羅王に問いたい」少女は、ふとかすかに眉をひそめた。その、あどけない面だちに、浮かんだものは、ひどくひたむきなこころの働きと、それにふれたすべての人々を亡ぼしてしまうかと思われるようなくらい情熱だった。

それにしても、阿修羅を少女として描いた、この光瀬龍の慧眼には驚かされます。確かに虚空をみつめながら、何者かに問いかけているような阿修羅像の表情に少女の面差しを見ることは、難しいことではありません。ちなみに、ここに描かれた阿修羅王の姿をほぼ忠実にマンガ化したのが、萩尾望都であることは周知の事実です。萩尾望都の手になるマンガ版『百億の昼と千億の夜』が1977年から『週刊少年チャンピオン』に連載されはじめたとき、私は憂いを帯びて眉をひそめ、それでいて凛々しくもある中性的美少女として描かれた阿修羅王の姿に、作家とマンガ家の幸福なコラボレーションの典型を見ていました。

行かなくては、阿修羅に会いに行かなくては……。

憑かれたように仏像たちの魅力に惹かれ、私が足しげく奈良・京都を訪ねるようになったのは、まさにその頃のことでした……。

とつぜんはげしい喪失感があしゅらおうをおそった。進むもしりぞくもこれから先は一人だった。すでに還る道もなく、あらたな百億の、千億の日月があしゅらおうの前にあるだけだった。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍著、『日本SFシリーズ』11、早川書房、1967年)

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