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五月のメモランダム◆小松左京『五月の晴れた日に』など

風薫る五月も残りわずかになってしまいました。

桜とともに訪れた春も去り、青葉・若葉の眩しい初夏へ。一年中でもっとも〈生〉の輝きに満ち溢れた季節は、間もなく梅雨を経て、辟易するほどの生命むせ返る夏へと移ろっていくのです。

五月、と聞いて一番に思い出すのが、寺山修司「五月の詩・序詞」です。

きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ

夏休みよ さようなら
僕の少年よ さようなら
ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ 重たい本 すこし
雲雀の血のにじんだそれらの歳月たち

萌ゆる雑木は僕のなかにむせんだ
僕は知る 風のひかりのなかで
僕はもう花ばなを歌わないだろう
僕はもう小鳥やランプを歌わないだろう
春の水を祖国とよんで 旅立った友らのことを
そうして僕が知らない僕の新しい血について
僕は林で考えるだろう
木苺よ 寮よ 傷をもたない僕の青春よ
さようなら

きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ

二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入り口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した

この瑞々しい詩を歌った時、寺山修司は21、22歳。若さのただ中で、生命萌える季節を歌いながら、この詩になぜか〈死〉の翳りを感じ取ってしまうのは、結核療養中の寺山が見ていた、遠い未来の姿が反映しているからでしょうか。

事実、寺山は1983年の5月4日に亡くなっています。

いっせいに萌え出づる青葉・若葉を歌って忘れられないのは、天地真理が1973年3月に発表した「若葉のささやき」明るいポップスを歌っていた天地真理ですが、私はちょっとマイナーな旋律が入っているこの曲が大好きです。

愛はよろこび それとも涙
誰も知らない ことなのね

目にも鮮やかな季節を描写しながら、恋の訪れに期待と不安を感じてしまう少女の気持ちを表すには、明るさの中の翳り――光を浴びた葉叢が風に踊り作り出す木の下闇こそ、少女の不安な心をピッタリに表わしているのでしょう。

愛はよろこび それとも涙
いつか私も わかるでしょう

五月には革命も香りも感じられます。1968年のパリ革命も影響しているのでしょうか。あるいは、ずっと昔に読んだ、小松左京『五月の晴れた日に』の影響かもしれません。

破滅的な世界戦争を経た未来。平和で、充ち足りた幸福を手に入れることができた未来世界。そこでは人口は常に一定に保たれ、進歩も退化もない安定状態が生まれました。一部の貴族階級は、芸術を愛し調和を求める、退廃的とも言える日々の暮らしを享受しています……。しかし、そうした支配階級は、実はかつて人間たちが作り出したアンドロイドであり、人間は彼らのしもべとなっていたのです。

人間本来の、常に新しいものを作り出していこうとするエネルギーを抑えこみ、新製品の考案、研究を禁止し、秩序体系の混乱を防ごうとするアンドロイドの思惑は成功し、史上初めての平和な世界が生まれはしました。だが、ついに、人間たちはそうした完璧な秩序の枠をはみ出し、暴動を起こすのです――その自然的本質によって……。

上部構造の物体化した存在にすぎない我々は、結局下部構造によってくつがえされ、改変される。

蜂起した人間に破壊される直前につぶやくアンドロイドの独白は、今や古臭さを感じ得ない歴史理論かもしれませんが、五月には〈革命〉もまた似合うのです。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:「五月の詩・序詞」(寺山修司著、『われに五月を』、思潮社、1993年)。「若葉のささやき」(山上路夫作詞・森田公一作曲・天地真理歌唱、1973年)。『五月の晴れた日に』(小松左京著、『神への長い道』〈ハヤカワ・SF・シリーズ〉所収、早川書房、1967年)

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