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五月のメモランダム◆小松左京『五月の晴れた日に』など

風薫る五月も残りわずかになってしまいました。

桜とともに訪れた春も去り、青葉・若葉の眩しい初夏へ。一年中でもっとも〈生〉の輝きに満ち溢れた季節は、間もなく梅雨を経て、辟易するほどの生命むせ返る夏へと移ろっていくのです。

五月、と聞いて一番に思い出すのが、寺山修司「五月の詩・序詞」です。

きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ

夏休みよ さようなら
僕の少年よ さようなら
ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ 重たい本 すこし
雲雀の血のにじんだそれらの歳月たち

萌ゆる雑木は僕のなかにむせんだ
僕は知る 風のひかりのなかで
僕はもう花ばなを歌わないだろう
僕はもう小鳥やランプを歌わないだろう
春の水を祖国とよんで 旅立った友らのことを
そうして僕が知らない僕の新しい血について
僕は林で考えるだろう
木苺よ 寮よ 傷をもたない僕の青春よ
さようなら

きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ

二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入り口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した

この瑞々しい詩を歌った時、寺山修司は21、22歳。若さのただ中で、生命萌える季節を歌いながら、この詩になぜか〈死〉の翳りを感じ取ってしまうのは、結核療養中の寺山が見ていた、遠い未来の姿が反映しているからでしょうか。

事実、寺山は1983年の5月4日に亡くなっています。

いっせいに萌え出づる青葉・若葉を歌って忘れられないのは、天地真理が1973年3月に発表した「若葉のささやき」明るいポップスを歌っていた天地真理ですが、私はちょっとマイナーな旋律が入っているこの曲が大好きです。

愛はよろこび それとも涙
誰も知らない ことなのね

目にも鮮やかな季節を描写しながら、恋の訪れに期待と不安を感じてしまう少女の気持ちを表すには、明るさの中の翳り――光を浴びた葉叢が風に踊り作り出す木の下闇こそ、少女の不安な心をピッタリに表わしているのでしょう。

愛はよろこび それとも涙
いつか私も わかるでしょう

五月には革命も香りも感じられます。1968年のパリ革命も影響しているのでしょうか。あるいは、ずっと昔に読んだ、小松左京『五月の晴れた日に』の影響かもしれません。

破滅的な世界戦争を経た未来。平和で、充ち足りた幸福を手に入れることができた未来世界。そこでは人口は常に一定に保たれ、進歩も退化もない安定状態が生まれました。一部の貴族階級は、芸術を愛し調和を求める、退廃的とも言える日々の暮らしを享受しています……。しかし、そうした支配階級は、実はかつて人間たちが作り出したアンドロイドであり、人間は彼らのしもべとなっていたのです。

人間本来の、常に新しいものを作り出していこうとするエネルギーを抑えこみ、新製品の考案、研究を禁止し、秩序体系の混乱を防ごうとするアンドロイドの思惑は成功し、史上初めての平和な世界が生まれはしました。だが、ついに、人間たちはそうした完璧な秩序の枠をはみ出し、暴動を起こすのです――その自然的本質によって……。

上部構造の物体化した存在にすぎない我々は、結局下部構造によってくつがえされ、改変される。

蜂起した人間に破壊される直前につぶやくアンドロイドの独白は、今や古臭さを感じ得ない歴史理論かもしれませんが、五月には〈革命〉もまた似合うのです。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:「五月の詩・序詞」(寺山修司著、『われに五月を』、思潮社、1993年)。「若葉のささやき」(山上路夫作詞・森田公一作曲・天地真理歌唱、1973年)。『五月の晴れた日に』(小松左京著、『神への長い道』〈ハヤカワ・SF・シリーズ〉所収、早川書房、1967年)

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春にして君と……◆柴田翔『されどわれらが日々――』

桜の花が咲き始め、今年も春が訪れましたね。

日本人にとって春の訪れを感じさせる一番のものは、桜の開花に違いないでしょう。でも、もう少し前の、冬が終わりかけ春が近づいている季節――早春を感じさせてくれる時期にも、自然はやさしい贈り物をしてくれるようです。

下宿の窓から外を眺めると、暖かい日差しをうけた畑地からもやがうらうらと立ちのぼり、遠くの神社の森や、南側の斜面の新しい町並の中に目立つ赤い教会の塔は、その軟らかい大気の中にかすむように漂っている。

私がまだ子どもだった頃、住んでいた家の周囲には空き地や畑が広がっていて、夜に雨が降った日の翌日など、ここに描かれているような、太陽の光に黒土からいっせいにモヤが立ち昇る風景をよく目にしたものです。

これは柴田翔『されどわれらが日々――』の終章、主人公の文夫の独白の冒頭に描かれたシーンです。この年の春の訪れは文夫にとって特別のものに感じられたことでしょう。前年の晩秋に始まる些細なできごとから運命の歯車は軋み始め、思いもよらず恋人の新しい旅立ちを見送る別れの春を迎えることになってしまうのですから……。

『されどわれらが日々――』を初めて読んだのは、20歳前後のことだったと記憶しています。20歳になった有名人が勧める本といった趣旨の特集を新聞で読み、その中で檀ふみが紹介していたのがこの本でした。何一つ不自由なく育った慶応大学のお嬢さんと思っていた(実際はものすごい葛藤があったのだろうけど)檀ふみなんかに負けてたまるか、みたいなおかしな対抗意識で読み始めたものでした。

読み始めてみるとその時代背景がよくわからず、またそれまで読んでいたSFやミステリとあまりに異なる内容にいささかの違和感を感じたものの、読み進むにつれてその内容に圧倒されてしまいました。

日本共産党第六回全国協議会(六全協)の決定によって山村工作隊など武装闘争路線が放棄されて間もなくの虚無感漂う時代を舞台に、東大大学院生の文夫と女子大学生節子の心の軌跡を描いています。60年安保前夜、まだ混沌とした時代。党の路線変更にとまどい自殺する元工作員をはじめ、信じていたものに裏切られ、この後何を信じて生きていけばいいのかという喪失感が全編を覆っています。今の大学生、いや僕が大学生だった頃のおちゃらけた学生生活を否定するような、主人公たちの悩み、政治との関わり方――何よりもその真摯な生き方に打ちのめされたことを憶えています。

婚約者の文夫との平凡で平和な生活を捨ててまで、あえて新しい一歩を踏み出す節子の覚悟。

人間にとって、過去はかけがえのないものです。それを否定することは、その中から生れ育ってきた現在の自分を殆ど全て否定してしまうことと思えます。けれども、人間には、それでもなお、過去を否定しなければならない時がある。そうしなければ、未来を失ってしまうことがあるとは、お考えになりませんか。

かけがえのない過去を捨ててまで、満ち足りた現在を捨ててまで、未来の自分のために一歩を踏み出す節子の潔さ。その雄々しいまでの覚悟の裏に見せる文夫への断ち切れぬ思い。

あなたは私の青春でした。どんなに苦しくとざされた日々であっても、あなたが私の青春でした。

後に荒井由実の名曲「卒業写真」のモチーフともなった、この美しいフレーズ。名セリフ中の名セリフです。

突然の別れを告げられて戸惑う文夫もまた、節子の決断を理解し、それを時代の中に位置づけようと試みます。ここには、あの時代を生きた知識人の良い部分が描かれています。

人は生きたということに満足すべきなのだ。人は、自分の世代から抜け出ようと試みることさえできるのだから。

同時に、文夫の思いは、その後に続く世代へのメッセージにもなっているのです。

やがて、私たちが本当に年老いた時、若い人たちがきくかも知れない、あなた方の頃はどうだったのかと。その時私たちは答えるだろう。私たちの頃にも同じように困難があった。もちろん時代が違うから違う困難ではあったけれども、困難があるという点では同じだった。そして、私たちはそれと馴れ合って、こうして老いてきた。だが、私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだと。そして、その答えをきいた若い人たちの中の誰か一人が、そういうことが昔もあった以上、今われわれにもそうした勇気を持つことは許されていると考えるとしたら、そこまで老いて行った私たちの生にも、それなりの意味があったと言えるのかも知れない。

――思いは松明のように引き継がれていかなければならないのでしょう。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『されどわれらが日々――』(柴田翔著、文藝春秋、1964年)

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〈永遠〉につながる物語◆光瀬龍『たそがれに還る』

日本SF作家クラブ創立50周年を記念したアンソロジー『日本SF短篇50』全5巻が早川書房より刊行されています。クラブ創設の1963年から2012年までの50年間に発表されたクラブ会員の短篇小説の中から、各年を代表する作品を一作選び出し、しかも作家が重複しないように時系列に配列するという、壮大なコンセプトのもとに編まれた究極のアンソロジーです。1963年から72年の10年間――黎明と勃興の10年間に発表された作品を収めた第一巻冒頭に、光瀬龍の『墓碑銘ニ〇〇七年』が掲載されています。

光瀬龍は、いわゆる日本SF第一世代を代表する作家の一人で、叙情と虚無感に支えられた東洋的無常観をバックボーンに持つ、その個性的な作風から「宇宙叙事詩を語る吟遊詩人」と称されています。私のような世代にとっては、筒井康隆や眉村卓とならんで、学習雑誌での連載や書下ろし作品を多く手がけたジュヴナイル作家としても忘れられないSF作家です。

光瀬龍自身は1999年に亡くなっていますが、つい最近まで『SFマガジン』誌上に、立川ゆかりの手による評伝「是空の作家・光瀬龍」が連載されていました。この評伝は、作家としての履歴よりも愛妻家としての側面に光を当てた画期的な評伝となっています。これを機会に、光瀬龍の諸作品が見直されるようになればありがたいことです。

さて、光瀬龍には、のちに〈宇宙年代記シリーズ〉と呼ばれる一連の作品があります。先に記した『墓碑銘ニ〇〇七年』のように、タイトルの末尾に年号を付した短篇群がそれで、圧倒的存在の宇宙空間に進出していく人類の姿を、主に挫折と敗北の記録として描いています。――永劫の時間の流れの中にあって、人類とはいかなる存在なのか? このテーマに貫かれた各作品はそれぞれが独立したものですが、実は超未来の宇宙文明史家がまとめた通史の中のエピソードを、一つ一つ読み物化したというスタイルを取っているところも優れた着想だと思っています。

長編SF小説『たそがれに還る』(1964年)は、そうした光瀬龍の魅力が詰め込まれた私の大好きな作品です。太陽系外から迫り来る破滅の予兆に対処する人類の姿と、それを徒労とあざ笑うかのような宇宙と時間の絶対的存在……。

こう書いてしまうと、破滅に支えられた人類の歴史――ともすれば無常観や虚無感のみが前面に押し出されているように見えますが(もちろんそれも魅力なのですが)、第四章「星そして星」の一章まるまるを使って描かれた宇宙観はロマンに溢れたものです。私はここに光瀬龍の、もう一つの魅力を発見したのでした。

われわれ人類は、太陽系の中の一惑星にしばりつけられていて、それら星々をおとずれ、あるいは宇宙の果まで飛んで、自らの疑問をただしてくるなどということはとてもできない。たとえわれわれに翼があり、あるいは光より早く飛べたとしてもそれは不可能なわざである。しかし、石のごとくこの地球を離れられなくても、その心さえ自由ならばいつでもそれら星々はもとよりあるいは大宇宙の果までも自らの目で、自らの心でながめ考えることができる。それは難しい数式や巨大な観測装置など何一つ必要としない。ややもすれば生活の中に失いがちな柔軟な心、あるいは花を見、鳥や虫の鳴声に耳をかたむけ、夕映えの空に忘れていたむかしの事どもを想い起す心、その心が実は星々の語る物語を受け止める。
そこに永遠につながる一つの世界がある。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

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出典:『たそがれに還る』(光瀬龍著、『世界SF全集』30所収、早川書房、1970年)

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これが〈始まりの終わり〉なのか◆小松左京『夏の終り』

今年7月26日に小松左京が80歳で亡くなってから、間もなく三ヶ月になります。そろそろ故人と縁のある出版社などで追悼企画や特集号が出版されてもいい頃だと思いますが、企画の噂は耳にするものの、まだ店頭に並ぶものはありません(河出書房新社から傑作選3冊と『文芸別冊』で特集号が出るらしいです)。亡くなった直後の新聞に掲載された記事や関係者からの追悼文をのぞけば、昨晩10月15日付けの『朝日新聞』夕刊「追悼」にコラムが載ったくらいでしょうか。何よりも腹立たしいのは、かつてはあれほどの蜜月時代を共に過ごした『SFマガジン』が、後の対立・決裂のしこりからか、いっさい口をつぐんでいることです。さすがに完全な無視黙殺というわけにもいかないらしく、同誌今月号では小松左京を含む「日本SF第一世代」を総括するという苦肉の企画でお茶を濁していますが、これってあまりに失礼なんじゃないかと思ってしまいます。

小松左京の実質上のデビュー作『地には平和を』が、『SFマガジン』主催のSF新人賞で選外努力賞を受賞したのは1961年。その翌年に同誌に掲載された作品、つまり商業誌デビュー作『易仙逃里記』以来、多くの短編・中編・長期連載作などを精力的に発表してきたにもかかわらず、1981年の、いわゆる〈太陽風交点事件〉を最後に、両者の関係は終りを告げてしまうのです。このあたりの経緯については、評論家の大森望をはじめ何人かが雑誌などに書いていますので省略しますが、いずれ時間がたって小松左京研究が進み、第三者によるしっかりとした評伝・研究が発表され、詳細が明らかにされるときを待ちたいと思います。

ところで、小松左京といえば誰もが認める日本SF最大の功労者で、最大の創作者です。その膨大な作品群は時に時空間を超越した気宇壮大な物語であり、また時に人類の可能性と未来を描いた物語であり、まさに「コンピュータ付きのブルドーザー」の異名に相応しいSF作家と認識されていることでしょう。

確かにそれは間違いのない事実なのでしょうが、実は小松左京はそうしたハードSFとは一線を画す、リリカルでロマンチックな、その青臭さに思わず照れてしまうような小品も多く発表しているのです。ここで紹介するのは、一連のショート・ショートの中でも、私が大好きな一編『夏の終り』(初出は1965年9月6日付けの『サンケイスポーツ』)です。

……夏も終りに近い、高原の避暑地。少年と少女が、霧の立ち込める杉林の中をさまよっています。テント村にもバンガローにも人影はなく、池の周囲の売店や射的場は閉じられています。夏の名残を残し、人々は街へ帰っていったのです。「誰もいない」「みんなかえって行ったよ」少年はつぶやき、少女は「いるのは、私たちだけ」と応えます。ふと気がつくと、林の奥の空き地に一軒だけ残っているお化け屋敷。入り口に立つ男の勧めるままに、中に入る二人。何かがうごめく闇の中を進み、いつしかくぐりぬけた出口には、男が待っていました。「こわかったですか?」と訊ねる男に、少女は「いいえ――暗いだけで、何も出なかったわ」。残念そうに男は「もう、店じまいですからね。来年の夏、また出ます」とつぶやきます。お化け屋敷を後にした二人がふっと振り向くと、お化け屋敷とそれが建っていた空き地そのものが跡形もなく消えうせていました。「ほんとうのお化け屋敷だったのね」そうつぶやく少女を、少年は「おいで……もっとむこうへ行ってみよう」とうながします。そして、この奇跡のように美しい掌編の最後は、こう結ばれています。

いよいよ深くたちこめる霧と、木の下闇の中に、二人の姿は消えていった。――この夏の、とある夜半、この池のまん中で、ボートが顚覆し、冷たい湧き水に心臓をつかまれて、抱きあったまま命をおとした、若い二人の魂は。

小松左京の死は、とりもなおさず日本SF全体の青春期、そして朱夏期の終りにほかなりません。芽生えの春、輝きの夏の後に来る季節は、豊穣の実りをもたらす秋なのでしょうが、それは同時に、次に巡って来る、暗く厳しい冬の季節を予感させるものでもあるのです。日本SFにとって確実に一つの季節が終わり、新しい季節が始まろうとしていることを感じます。

そう、『夏の終り』の冒頭が、こう語るように……。

夏の終りは、祭りの終りだ。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

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出典:『夏の終り』(小松左京著、『ある生き物の記録』〈ハヤカワ・SF・シリーズ〉所収、早川書房、1966年)

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彼らの無能を嗤う◆田中光二『怒りの聖樹』

東日本大震災からやがて半年。日々移ろう世の中にあって、マスコミがこの話題を取り上げる頻度も少なくなり、気がつけばテレビからは相変わらずの「お気楽番組」が今日も垂れ流されています。問題なのは、お気楽番組に徹していればそれはそれで良いのに、視聴者におもねっているのか、スポンサーからの要請なのか、押しつけがましい「がんばろう、日本」「がんばろう、東北」のかけ声だけは右にならえ、のまま。高校野球のスローガンにまで使われているのはちょっとどうかと思いましたし、インタビューで平然と「自分たちのプレーが被災者へ元気を与えられれば云々」と、しゃべっている球児たちは、本当に意味がわかってマイクに向かっているのでしょうか。

直接の被害を受けなかった私が、自分勝手な意見や思いを軽々しく書き連ねるのもどうかと思い、この件に関してはいっさい口をつぐんできました。被災した方々にお見舞いの言葉を口にしても、東京電力をはじめとする原子力発電所関係者への糾弾を叫んでも、一向に進まない復旧・復興政策を政治家の無能のせいにしても、所詮は外野席からの無責任な放言になるだけだからと思っていたからです。

だけど、半年という時間をまったく無為な時間としてしまい、おそらくはこれからの時間もそうなってしまうだろうことを考えると、その責任を負うべきこの国の政治・行政をになう人たちには、この言葉だけは伝え、肝に銘じてもらいたいと強く思う次第です。

「ぼくは、今ほど想像力が必要な時はないと思っている――直観に裏打ちされた想像力が、だ」

30年以上前に田中『怒りの聖樹』で語ったこの言葉ほど、今の日本の政治家にとって必要なものはないのではとあらためて思います。目先の権力争いや足の引っ張り合いといった視野狭窄状態では、この難局を乗り越えることは不可能です。そうした彼らを嗤う権利は、少なくとも私たち有権者は持っていると思います。

当座の対応も確かに必要でしょうが、何よりも長期的なビジョンとユニークな想像力があってこそ、被災地の人々と日本全体にとってもっとも望ましい、歴史的にも評価されるような「復旧・復興」が可能となってくるのではないでしょうか。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

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出典:『怒りの聖樹』(田中光二著、『ノン・ノベル』、祥伝社、1977年)

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旅する少女たち◆素九鬼子『旅の重さ』

夏……学校という管理社会から解き放たれた少女たちは、ひと夏の出会いとささやかな冒険を夢見て、高原の避暑地に、海辺のリゾート地に集まってきます。そして、秋風が吹き始め、夏の終わりが近づいてくるころ、ある少女は忘れられないアバンチュールの思い出を胸に、またある少女は一生消えないであろう心の傷を隠して、都会に帰ってくるのです。そう、ほとんどの少女たちにとって、夏の旅行はあらかじめ往復切符を手にした折り返しの旅であって、夏の終わりとともに彼女たちの旅も終わりを告げてしまうのです。だけどなかには、そうほんのわずかではありますが、行きっ放しで決して帰ってこない少女もいるのです――例えば、素九鬼子『旅の重さ』の少女のように……。

『旅の重さ』は、1972年に斎藤耕一監督によって、高橋洋子主演で映画化されています。映画冒頭、スクリーンは闇に閉ざされたまま。その中に誰かがゴソゴソと動いている気配があり、やがてガタッという音が聞えると、スクリーンにたてに一筋の光が走ります。ああ、誰かが戸を開けたんだな――そう思った瞬間、次のカットは、夏の朝まだき、一面の緑の田んぼの中に建つ掘建て小屋を正面からとらえ、きしむ引き戸をこじ開けて外に出てくる一人の少女を映し出します。闇から光への鮮やかな場面転換に息をのむ間もなく、入り込むテーマソング、吉田拓郎の「今日まで、そして明日から」……。

撮影カメラ出身の斎藤監督の作品に対しては、前々から映像の美しさに定評がありましたが、この作品でもそれは如何なく発揮されていました。冒頭のシーンをはじめ、夏の四国の田舎の一日――朝もやに煙る風景から、昼のむせかえるような草いきれの小道、そして空を七色に染め上げる夕景まで、その風景のなんと美しかったことでしょう。加えて、映画初主演の初々しい高橋洋子の魅力。麦藁帽子に白いポロシャツ、白い体操ズボン(トレパン)。スニーカーなんてしゃれたものではないただのズックの運動靴。のちにミニコミ雑誌『少女座』第3号(1986年)の特集で「少女の旅装束の基本」と絶賛されたこのスタイルは、まだあどけなさの残る高橋洋子の真ん丸顔にぴったりでした。

自堕落で男にだらしない画家の母親との生活に嫌気をさし、逃げるようにあてどのない旅を続ける少女は、やがて一人の中年男と出会い、生活を共にするようになります。定住することで彼女の旅は終わりを告げたのでしょうか? 放浪にも近い旅の途中、高熱に浮かされ瀕死の状態で、少女はこうつぶやきます。

「これを旅の重さと、わたしは考えるの。これは非常に疲労した時にだけやってくるものだとは限らないの。歩きながら心がはしゃいでいる時にでも、ふいにやってくるのです。しかしわたしはそれ程これをきらっていません。むしろ、これを感じなくなったらおしまいだとさえ思っているの」

旅に出るという行為はいったい何なのでしょうか? なぜ人はふいに思い立って旅に出るのでしょうか? そもそも、旅に「始まり」や「終わり」などあるのでしょうか? ――その問に、寺山修司は、こう答えます。

漂泊とは、たどりつかぬことである。たとえ、それがどこであろうとも、われわれに夢があるあいだは、「たどりつく」ことなどはないだろう。漂泊と、百たび書いて、あしたまた、旅立つ。

疲れた表情で日常生活を生きる「秋の少女たち」を目にするたびに、中年男と暮らす生き生きとした「旅の少女」を思い出してしまいます。

ところで、映画版の『旅の重さ』を語るときに忘れてはならないことがあります。それは主役公募で次点となった秋吉久美子の存在です。記念に、という軽い気持での出演ではありましたが、これが彼女にとっての実質上のデビュー作になっています。高橋洋子演じる「旅する少女」と、秋吉久美子演じる「自殺する少女」との比較については、あらためてご披露したいと思いますので、ご期待下さい。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『旅の重さ』(素九鬼子著、『角川文庫』、角川書店、1977年)。『旅の詩集』(寺山修司著、『カッパブックス』、光文社、1973年)

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阿修羅、1300年の孤独◆光瀬龍『百億の昼と千億の夜』

現在、東京国立博物館で特別展「国宝阿修羅展」が開かれていますね。本来は奈良市の興福寺に安置されている阿修羅立像を東京で見ることができることは、首都圏や関東在住の仏像好きにはたまらない機会だと歓迎すべきことなのでしょうが、本当にこれでいいものなのでしょうかと疑問に思ってしまいます。

「出開帳」(『広辞苑』によれば「本尊など仏像類を他所へ出して公開すること」とあります)自体は、それこそ交通手段もままならない江戸時代から、信心深い江戸の庶民のためのありがたい行事でしたが、昨今のそれは、どうも初めに金儲けありき、みたいな臭いがぷんぷんとして何だか怪しい雰囲気を感じてしまうのは私だけでしょうか。

東京・京都・奈良・九州の四つの国立博物館が独立行政法人化し、自分の博物館は自分の力で集客、集金をという方針に転換して以来、国内有数の箱物としてのキャパシティ、大都市圏にある立地条件を背景に、一気に古寺名刹の国宝レベルの仏像を移しての「出開帳」がブームになったと思います。そもそも仏像は信仰の対象であって、収められているお寺などを訪ねて、その置かれている環境を含めて拝観するのが自然なのでしょうが、仏像を美術品として研究対象とするアカデミックな考えのもと、明るい照明の当たった衆人環視の条件下で鑑賞する考えも一般化しています。どちらが正しく、どちらが間違っているということはありませんが、ただ本当にお金儲けのためのみに仏像に行脚願っていると、いつか仏罰が下ることでしょう。ああ、くわばら、くわばら。

さて、阿修羅立像です。みうらじゅんをはじめ、阿修羅立像の熱狂的ファンは多いようですが、私もこの像は好きな仏像のトップ10上位にランクしています。阿修羅立像の存在を知ったのは、おそらくは歴史か美術の教科書なのでしょうが、今にも泣き出しそうな表情を見て、それまで抱いていた阿修羅に対するイメージが音を立てて崩れていくのを感じました。「何て寂しそうな顔をしているんだろう……」およそそれまで「阿修羅」という言葉から受けていた先入観――ジョージ秋山のマンガ『アシュラ』からの刷りこみも多かったのでしょうが、凶暴で残忍という先入観が誤りだったことを知ったのです。そして、出会ったのが、光瀬龍のSF小説『百億の昼と千億の夜』でした。

高校生の頃、私は日本人作家によるSF小説にのめりこんでいました。小松左京の膨大な宇宙的知性・教養に圧倒され、筒井康隆の狂気と反権力のブラック感覚に麻痺し、平井和正の救いようのない暴力に打ちのめされ、そして、光瀬龍が描く、時の流れの中にあってあまりに卑小な人類とその文明の存在に震えたものでした。代表シリーズの「宇宙年代記シリーズ」や長編『たそがれに還る』などで繰り返し語られた、永劫の時の流れと刹那に生きる人類との対比は、なぜか当時の私の気持にぴたりと当てはまり、その東洋的無常観とよばれた思想は、私がのちに歴史を専門的に学ぶ一つのきっかけになっていくのです。

その光瀬龍の初期の到達点とも言える長編小説がこの『百億の昼と千億の夜』でしょう。何しろ時間レベルで言えば何千年、何億年というレベルを超えるスパンの中で語られるわけで、登場するのはナザレのイエスや悉達多太子、アトランティス大陸のオリオナエ、そして阿修羅王(作品中では「王」が付されています)ら時代も地域も越えた世界で生きる伝説上の者たち。56億7000万年後にこの世界に降臨し、人類を救済すると伝えられる弥勒思想、全宇宙の創造主にして破壊王の転輪王。硬質でさらさらに乾ききった光瀬龍特有のハードボイルドな筆致でつづられる、時空を越えて世界の終焉に迫る彼らのめくるめく思索と冒険の旅に、私は魅了されました。

作中、のちの仏陀、悉達多太子が阿修羅王と出会うシーンがまた素晴らしいのです。

はためく極光(オーロラ)を背景に一人の少女が立っていた。「阿修羅王か」少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。「そうだ」少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それに似つかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。「阿修羅王に問いたい」少女は、ふとかすかに眉をひそめた。その、あどけない面だちに、浮かんだものは、ひどくひたむきなこころの働きと、それにふれたすべての人々を亡ぼしてしまうかと思われるようなくらい情熱だった。

それにしても、阿修羅を少女として描いた、この光瀬龍の慧眼には驚かされます。確かに虚空をみつめながら、何者かに問いかけているような阿修羅像の表情に少女の面差しを見ることは、難しいことではありません。ちなみに、ここに描かれた阿修羅王の姿をほぼ忠実にマンガ化したのが、萩尾望都であることは周知の事実です。萩尾望都の手になるマンガ版『百億の昼と千億の夜』が1977年から『週刊少年チャンピオン』に連載されはじめたとき、私は憂いを帯びて眉をひそめ、それでいて凛々しくもある中性的美少女として描かれた阿修羅王の姿に、作家とマンガ家の幸福なコラボレーションの典型を見ていました。

行かなくては、阿修羅に会いに行かなくては……。

憑かれたように仏像たちの魅力に惹かれ、私が足しげく奈良・京都を訪ねるようになったのは、まさにその頃のことでした……。

とつぜんはげしい喪失感があしゅらおうをおそった。進むもしりぞくもこれから先は一人だった。すでに還る道もなく、あらたな百億の、千億の日月があしゅらおうの前にあるだけだった。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍著、『日本SFシリーズ』11、早川書房、1967年)

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君にモクレンの花を贈りたい◆庄司薫『白鳥の歌なんか聞えない』

この季節、例えば思わぬ深酒に酩酊した深夜、後悔の念にさいなまれながらの帰宅の途中、ただよってくる甘い香りにふと足を止めることがあります。春の訪れを告げるような、どこか懐かしい香りに見上げれば――そこには、夜目にも白いハクモクレンの花が、今を盛りとばかりに枝いっぱいに咲き誇っているのです……。

映画会社の東宝は、庄司薫原作の「薫くんシリーズ四部作」のうち、第一作の『赤頭巾ちゃん気をつけて』と、三作目この『白鳥の歌なんか聞えない』の二作を、それぞれ1970年と72年に、森谷司郎監督と渡辺邦彦監督で映画化しています。両方とも主人公の薫くんは岡田祐介が演じ、ヒロイン由美ちゃんは第一作では森和代(のちの森本レオ夫人)が、第二作では公募で選ばれた新人、本田みちこが演じています。ところで、私と「薫くんシリーズ」との出会いは小説版が初めてではなく、実は1972年公開の映画版『白鳥の歌なんか聞えない』が最初でした。当時、高校生だった私は、友人(もちろん男性)と二人で、熊井啓監督、栗原小巻と加藤剛主演の『忍ぶ川』を見に行ったのです。まったく何を考えて男二人で出かけていったのかわかりませんが、その『忍ぶ川』との同時上映が『白鳥の歌なんか聞えない』でした。お目当ての『忍ぶ川』にはもちろん感動しましたが、『白鳥の歌なんか聞えない』からはそれ以上の衝撃を受けました。

加山雄三の「若大将シリーズ」に代表されるように、青春映画の中でも都会的センスにあふれた明朗快活な作品を得意としていた東宝は、当時、大きな曲がり角に立っていました。時代の趨勢は、毒気のない明るいだけの青春映画を時代遅れの過去の遺物と葬り去ろうとしつつあり、同じ青春映画でもハッピーエンドで終わるだけの作品よりも、もっと問題意識を持った作品や反体制的な色合いを明確にした作品が求められるようになっていました。こうした東宝青春映画の変遷については、別の機会にあらためてお話ししようと思いますが、『赤頭巾ちゃん気をつけて』『白鳥の歌なんか聞えない』の2作は、東宝青春映画過渡期の作品の好例としても位置づけられるのだと思います。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』の約一月半後、1969年3月19日から24日までの6日間を舞台にした『白鳥の歌なんか聞えない』のテーマは、ずばり「生と死」です。そして、前にもお話ししましたようにヒロインの由美ちゃんの魅力が四部作中もっともよく描かれているのが、この作品だと思います。

冬が終わりすべての生命が芽生える春のただなかにあって、そこに背中合わせにある死の存在……。ふとしたきっかけで、死の床についている全身これ知性の塊みたいな老人の介護をすることになった由美ちゃんには、いつものような明るさや、薫くんをリードするしっかりしたところもありません。それどころか、情緒不安定で、ちょっと変なのです。突然、縫いぐるみの耳に隠して「あなたがとてもとても好きです」なんていうラブレターまがいの手紙を渡したり、心配する薫くんの肩に頭をもたせかけながら、

「沈んでいく大きな夕日に向って草笛を吹くような気持」

などとつぶやいたりします。そして、何と薫くんに体をあずけようとすらするのです。おせんちと言えばおせんちなのでしょうが、それでもいつもの由美ちゃんとは確実に違っています。そう、由美ちゃんは、初めて身近に接した「死」の甘美な誘惑にからめとられ、「死」の美しさに魅せられ、そして何より「死」の恐怖に怯えていたのです。

映画版でこの由美ちゃんを演じた本田みちこが絶品でした。ストーブの炎の照り返しを浴びて先に書いた名セリフをつぶやくシーンの、その横顔の神々しさ。あるいは、死の恐怖から逃れるために薫くんに身を任そうとベッドに横たわり、みずから上着を脱いでいくシーンの、その乳房の初々しさ。こんな可愛い女の子を見たのは、本当に生まれて初めてでした。小説に描かれた由美ちゃんに理想の女性像を見ていた私にとって、その由美ちゃんをみごとに体現した本田みちこは、そのまま私にとっての憧れの女性となりました。その後、彼女は『影狩り』『狼の紋章』など数本の映画に出演はしますが、1976年の『激突! 若大将』を最後に芸能界を引退します……。

さて、ここで由美ちゃんに関するトリビアを紹介しましょう。

森和代と本田ゆみこのほかにも、由美ちゃん役を演じたもう一人の女優さんがいることを知っていますか? NHKが夜の8時45分ころから毎日放映していた連続ドラマシリーズの一篇に、「薫くんシリーズ」3作を合わせて再編成したテレビ版『赤頭巾ちゃん気をつけて』があったのです。このテレビ版では、学習院女子高校を卒業したばかりの仁科明子が、由美ちゃんを演じていたのです。このあと仁科明子は、その才能を認められ、倉本聰や木下恵介脚本のドラマに多く出演するようになります。タクシーに乗っても一人では行き先すら言えないくらいのお嬢さんだった彼女が、のちに共演した松方弘樹とのあの電撃的結婚にいたるなんて、この時点で誰が想像できたでしょうか……。

おっと、閑話休題。

滅びの美学、とでも言うのでしょうか。沈んでいく夕日や、はかなく散る花、死んでいく素晴らしい知性などの罠に魅入られてしまった由美ちゃんは、とうとう裸身となって薫くんをベッドに誘おうとします。「据え膳食わぬは……」などとオヤジくさいことは言いっこなし。こののっぴきならない状況にあって、由美ちゃんを抱きしめたいと思う反面、死の影を怖れるような形では絶対にいけないんだと必死に自制する薫くん。その葛藤の中で、ついには手も触れないままに射精してしまう、この永遠の名シーン。

これはやはり罠なのだ。愛の姿をしてぼくたちを誘いこむ罠なのだ。ととえどんなに馬鹿げていると言われようと、つまらない若者のこだわりと言われようと、そんな他人の死から、いや、この夜をひそかに充たす「死」から恩恵をこうむるようなことはどうしてもしたくない……。

   
そして映画は、小説と同じように、深夜、薫くんが由美ちゃんの家の玄関脇に大きなハクモクレンの枝をささげるシーンで終わります。

ふたたび、現在に戻って、2009年3月、早春の深夜。かつて由美ちゃんの感性に涙し、本田みちこに憧れた私は、すっかり中年になり、酔ってふらつく体を壁にあずけて咲き誇り、甘い香りをただよわせるハクモクレンの花をみつめています。人通りも絶えた深夜の住宅街にたたずむ私の脳裏に、ふいに、ほんの一瞬、小説や映画のようにジャンプしてハクモクレンの枝を折っている自分の姿が浮かびました。でも、薫くんが万感の思いを込めて由美ちゃんに贈ったハクモクレンの花を、はたして今の私は誰に贈ったらいいのでしょうか?

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『白鳥の歌なんか聞えない』(庄司薫著、中央公論社、1971年)

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翻訳家たちの挑戦◆ポール・ニザン『アデン・アラビア』

21世紀に入ってから、いわゆるモダン・クラシックと呼ばれる欧米小説の新訳・改訳作業が行われることが増えてきました。

1950年代に欧米の作家によって書かれた、同時代を舞台にした作品は、60年代に翻訳、出版され、多くの読者に迎えられました。インターネットなど夢想だにしない、情報の入手が書籍や雑誌など一部の媒体に限られていた時代のことです。作品に描かれた欧米人の風俗や価値観、生活のありようなどは、カルチャーショックとなって当時の日本人に大きな影響を与えたのでしょう。ある作品は社会現象を巻き起こし、ある作品は若者たちのライフスタイルを変え、またある作品はそこに描かれた描写をめぐって論争を生みました。こうした小説の翻訳に携わったのは、その多くがまだ若い気鋭の翻訳家たちでした。ドイツ文学の専門家と言えばT、ロシア文学の訳者と言えばY……といったように、すでに大家として名をなした翻訳家ではなく、たとえ有名ではなくとも進取の機運にあふれた研究者や翻訳家たちが、こぞってこれはという作品の紹介に力を注いだのです。

そして、30余年がすぎた21世紀冒頭。当時の読者のうち長じて小説家や研究者、翻訳のプロになった人たちによる、満を持しての旧版の見直し作業が始まりました。それは、旧版へのオマージュであると同時に、「名訳」と評価が高い旧版への「挑戦」でもあったのです。

たとえば、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)の冒頭の一行。1964年の野崎孝による旧版では、

もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ……

とあるのに対し、2003年に同じ白水社から刊行された村上春樹による新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で、それは、

こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。……

となっています。

旧版を訳した野崎孝の最大の功績は、一つに原題『The Catcher in the Rye』を『ライ麦畑でつかまえて』という絶妙の邦題に意訳したことです。日本人に親しまれている俳句の五・七・五、ほぼその後半十二文字に合わせたリズミカルな書名は、同じ調子のダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』と並んで、名邦訳のベストに挙げられると思います。そしてもう一つの功績が、全編を通じての主人公の一人称語りを、徹底した若者言葉による口語体で訳したこと。ただ残念なことに、40年以上も経ってしまうと、日々変化している若者言葉やスラングの多様化に追いつかず、その言い回しや固有名詞にいささかの古さや違和感を感じてしまいます。このあたりが、全時代対応型のカチッとした文語体ではない、口語体ゆえの弱点なのでしょう。村上春樹の新訳版にも、そうした口語体ならではの苦労が随所に見受けられます。要は、旧約・新訳のいずれが良い悪いではなくて、野崎版は野崎版、村上版は村上版として読み比べをするなど、それぞれを楽しむことだと思います。

次に、1953年に原書が刊行されたアーサー・C・クラークのSF小説『幼年期の終わり』。福島正実の訳で1964年に早川書房から『ハヤカワ・SF・シリーズ』の一冊として刊行され、以来、つねに読者アンケートではベスト10の上位常連となっている正統派SFで、私も高校生のころに読んで感動を受けました(ちなみに福島版では『幼年期の終り』)。この作品もあいだに沼沢洽治訳の創元SF文庫版(1969年、書名は『地球幼年期の終わり』)をはさみながら、2007年に池田真紀子による新訳版が『光文社古典新訳文庫』に収められました。なお、クラークは1989年に第1章の冒頭、プロローグにあたる部分を、東西冷戦下の宇宙開発競争の時代を舞台にした初版から、米ソ共同の火星探査計画が行われている時代へと、設定自体を大改稿しているので、訳者の違い以前に、内容そのものが大きく変わっています。

そして、今回の名セリフ、ポール・ニザン『アデン・アラビア(1931年)冒頭の、あの有名な一行。

ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。

新訳版の仕掛け人、池澤夏樹によれば、「二十世紀のフランスの小説の中で最も有名な書き出し」の二つのうちの一つがこの書き出しで(もう一つは、カミユ『異邦人』の「きょう、ママンが死んだ」)、「これが有名になったのは、要するに誰もが二十歳の時にこう思うからだ。青春は美しいという老人たちの紋切り型の賛辞に対する当事者の強い反発」だからだと続けています(『世界文学全集』Ⅰ-10、河出書房新社、2008年)。

篠田浩一郎によって訳され、1966年に『ポール・ニザン著作集』第1巻として刊行された初版のこの一行は、私を圧倒的に打ちのめしました。この言葉を知ったのは、まさしく私が20歳前後のころ。国や市が勝手に祝ってくれる成人式なんてナンセンスと参加をボイコットする一方で、20歳、という年齢には妙なこだわりを持って、「20歳のうちに童貞を捨てるのだ」などと変な誓いを立てたり、そうかと思えば、高野悦子の『二十歳の原点』をはじめとする20歳くらいの男女が登場する本やマンガを手当たり次第、読み漁っていました。今にしてみれば、この時期の思い出は、どれもこれもみじめでつまらないものばかりですが、『アデン・アラビア』冒頭の一行をつぶやくことで、きれいごとばかりを口にする大人たちのうさんくささに憤り、自分なりの異議申し立てをしていたつもりだったのでしょう。

今年になってからも、朝吹登水子の1955年の名訳で知られるフランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』が河野万里子による新訳として出版されるなど、新訳・改訳ブームはまだまだ続きそうです。とまれ、およそすべての学問や研究は、日々進化を重ね、今日の新発見・新説も明日には簡単に塗り替えられてしまうことはたびたびです。それでも、旧来の成果をベースに、あるときはそれを否定し、あるときはそれを継承して、学問や研究は発展してきたわけですし、翻訳という営為もまたそうであるのでしょう。

あっ、そうそう。小野正嗣による新訳版の『アデン・アラビア』の冒頭は、次のとおりです。ここまで人口に膾炙された名文となると、さぞかし大変な作業だったのでしょうね。

僕は二十歳(はたち)だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『アデン・アラビア』(ポール・ニザン著・篠田浩一郎訳、『ポール・ニザン著作集』1、晶文社、1966年)

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銀座旭屋書店前の奇跡◆庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

今を去ること30数年前の春まだ浅いある日、私は早稲田大学から高田馬場駅に続く早稲田通りを、一人とぼとぼと歩いていました。その日発表のあった早稲田大学教育学部入学試験の結果は、不合格。これで私は、その年チャレンジしたすべての大学受験に失敗してしまい、浪人生活が決定したのでした。春本番を思わせるうららかな陽射しとはうらはらに、さすがに受験全敗のショックは大きく、またこれから始まる1年間(考えたくはありませんが、あるいはそれ以上)の浪人生活を思うと、自然と足取りも重くなっていました。入学関係書類の入った袋を手に、軽やかなステップで私を追い抜いていく男女に羨望と嫉妬のまなざしを向け、心の中では「けっ、現役で入るやつなんて苦労知らずの坊っちゃんだ」と変なごまかしで自分を慰めていた私は、ふと一軒の古本屋の前で足を止めました。

コンビニエンスストアとゲームセンターばかりが目立つ今の早稲田通りと違って、当時、通りには多くの古本屋が並んでいました。目の前の何の変哲もない古本屋になぜ入ってしまったのかは覚えていませんが、何かに導かれるように入った店の棚に、その本は3冊がまとめてひもでしばって置かれていました。「人が本を手にとる時、それは本に呼ばれているのだ」という言葉がありますが、あの日の出会いを思い起こすたびに、この世の中には数はきわめて少ないものの、確かに自分のために用意された小説は存在しているのだと思わずにはいられません。

その店で、のちに「薫くんシリーズ四部作」と呼ばれる庄司薫の小説中、刊行済みだった『赤頭巾ちゃん気をつけて』『さよなら快傑黒頭巾』『白鳥の歌なんか聞えない』の3冊の古本を買い込んだ私は、その夜、ほとんど一気読みで全冊を読み終えました。それまでおもに国産あるいは海外のSF小説ばかりを読んでいた私にとって、この種の小説はほとんんど初体験に近いものでした。おそらく早大生が売り払ったであろうこの3冊には、いたるところに、彼、もしくは彼女による赤鉛筆のしるしがつけられていました。私とそれほど年齢も違わないであろう以前の読者が残した感銘の名残り――それは、そのまま私に受け継がれ、より増幅されていったのです。

ところで、この「薫くんシリーズ四部作」の書名の一部にたくみに取り込まれている赤・黒・白・青の4色は、今でも大相撲の土俵を囲む垂れ房の4色と同じで、これは古代中国から日本に伝えられた四神思想をルーツに持つ世界観の表象にほかなりません。すなわち、青龍・朱雀・白虎・玄武の霊獣には、それぞれ五行思想に基づいて青・赤・白・黒の4色が配されていて、同時にそれは春夏秋冬・東南西北という、時間と空間で構成されているこの世界全体を表わす四つの色でもあるわけです。

東京大学の入学試験が中止された1969年の2月から、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功したその年の7月までの約半年間に、主人公の薫くんが体験した四つの物語からなるこのシリーズは、一つ一つの作品はもちろん優れた青春小説であることに間違いはありませんが、書名にこめられた作者の想いを考えてみれば、あたかもドン・キホーテの見果てぬ夢を追い求めた歴程にも似て、当時の若者たちを取りまく時代や世界を遍歴、彷徨する薫くんの冒険譚といったとらえ方もあるのではないでしょうか。というわけで、今回の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を手はじめに、物語の舞台となった季節に合わせて「薫くんシリーズ」に表われた名セリフと、その世界を追いかけてみたいと思います。

さて、シリーズ第一作の『赤頭巾ちゃん気をつけて』。 1969年に雑誌『中央公論』5月号誌上に発表され、そのままその年の第61回芥川賞を受賞、単行本化されるや大ベストセラーになるという、華やかな経歴を持つ作品ですが、サリンジャーばりの文体(実際は、訳者野崎孝の名訳ばり、ということになるのでしょうが)の清新さ、登場人物のみずみずしい感性のすばらしさ、などの賞賛の声ばかりが鼻につき、「へそ曲がり」を自認する私は、手にとることもないままになっていたのでした。

ところが読んでみると、そうした先入観はもののみごとに崩れ去りました。甘っちょろいほどのやさしさにあふれた『赤頭巾ちゃん気をつけて』はもちろん、学生運動に挫折した先輩たちへの鎮魂歌を思わせる『さよなら快傑黒頭巾』、そして生と死のあわいで心揺れる若者像を描いた『白鳥の歌なんか聞えない』――そのどれもが、当時の私の心情とぴったりと合わさり、空白だったすき間をふさいでくれたのです。その後、心くじけそうになるたびに、私は何度このシリーズを読み返したことでしょう。「みんなを幸福にするにはどうすればいいか」――薫くんのこの問いかけに答えを出そうとすることで、私は「青春」と呼ばれる季節を、まがりなりにも生きぬくことができたのだと思っているのです。

本シリーズの主人公の薫くんこと庄司薫は、都立日比谷高校を卒業したばかりの18歳。山手線某駅近くの、お手伝いさんがいるお金持ちの家に住む男の子です。5人兄弟の末っ子で、4人の兄たちはすでに家を出ています。学校群以前の日比谷高校出身ですから、当然、成績優秀の優等生。もちろん目指すのは東京大学。近所には幼なじみで、ガールフレンドの下条由美(薫くん呼ぶところの「由美ちゃん」)が住んでいて、テニスをしたり散歩をしたり仲良くつきあっています。この由美ちゃんがものすごく魅力的な女の子――美人で、頭の回転が速くて、おしゃれで、おセンチで、生意気で、それでいて「すぐ舌かんで死んじゃいたい気持になる」ようなデリケートな女の子なのです。この、私にとって永遠の憧れの女性、由美ちゃんについては、シリーズ中、もっとも彼女の魅力がきわだつ第三作『白鳥の歌なんか聞えない』の回で詳しくお話ししたいと思います。さて、薫くんですが、その優柔不断ぶりと、頼りなさのせいもあるのでしょうか、由美ちゃん以外に女性にもモテモテで、『赤頭巾ちゃん気をつけて』では年上の女医さんの誘惑を受けたりします。

このようにうらやましい限りの恵まれた環境、条件の下、何一つ不自由などないはずの薫くんですが、1969年2月9日、日曜日の彼は、最低最悪の状態にありました。志望大学の東京大学は、学生運動の混乱を理由に早々とその年の入試中止を決定してしまうし、12年間飼っていた愛犬は死んでしまうし、薫くん自身も廊下に置いてあったスキーのストックを蹴っ飛ばして左足親指の生爪をはがすという大けがを負ってしまいます。物語は、そんな薫くんの一日を、彼自身の一人称で淡々とつづっていきます。

現在の青春小説に比べれば、ストーリー展開は退屈するくらいにゆっくりと進んでいくし、これといった事件や刺激的なできごとも起こりません。当然、カタルシスもないわけで、現在の小説に慣れた若い読者は戸惑ってしまうことでしょう。また、随所に書かれている冗漫で理屈っぽいモノローグや友人との会話、衒学的な知識披露に辟易する若者も少なくないでしょう。

何ごともなかったように冬の一日が終わるころ、薫くんは満ち足りない想いを抱いて、一人で銀座に出かけます。日曜日の夕方の銀座――あふれかえる雑踏の中、薫くんは孤独でした。人ごみに流されるように、生爪をはがした足を引きずりながら数寄屋橋からソニービルを経て四丁目交差点に向かう薫くんは、資金カンパを募る学生たちに、突然うさんくささを感じ、猛烈な不信感、反撥心を抱きます。この不意の感情はまたたく間に負の連鎖となって、次第に街を行きかう見知らぬ人々をはじめ、都市や社会や文化や世界といった自分を取りまくすべてのものに対する憎悪にまでふくれあがっていきます。

すっかりダメになりかけた薫くん。しかし、この絶対的危機にあって、それらの負の感情を一気に吹き消すような奇跡が訪れます。その奇跡を運んできてくれたのは、旭屋書店の前で立ちつくす薫くんの左足親指を思い切り踏みつけた小さな女の子でした。黄色いコートに、黄色い大きなリボンをつけたその女の子に頼まれて『あかずきんちゃん』の童話を選んであげた薫くんに、別れぎわ、彼女ははにかんだ眩しげな表情で微笑みかけてくれたのです――「気をつけて」と叫んだ薫くんに向かって、「あなたも気をつけて」と言うように……。そう、たったこれだけのことが、固く閉ざされかけた薫くんの心を開いてくれたのです。2008年に閉店となり、今はない旭屋書店銀座店前で、一つの奇跡が起こったのです。

物語の終幕。由美ちゃんと夜の街を歩きながら今日一日のできごと、何より銀座で出会った女の子の話しを心をこめて語り終えた薫くんがたどりついた決心は、そのまま私にとっての決心にほかなりませんでした。

ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。そのなかでは、この由美のやつがもうなにも気をつかったり心配したり嵐を怖れたりなんかしないで、無邪気なお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう。ぼくは森のような男になろう。たくましくて静かな大きい木のいっぱいはえた森みたいな男に。そのなかでは美しい金色の木もれ陽が静にきらめいていて、みんながやさしい気持になってお花を摘んだり動物とふざけたりお弁当をひろげたり笑ったり歌ったりできるような、そんなのびやかで力強い素直な森のような男になろう。そして、ちょうど戦い疲れた戦士たちがふと海の匂い森の香りを懐かしんだりするように、この大きな世界の戦場で戦いに疲れ傷つきふと何もかも空しくなった人たちが、何故とはなしにぼくのことをふっと思いうかべたりして、そしてなんとはなしに微笑んだりおしゃべりしたり散歩したりしたくなるような、そんな、そんな男になろう……。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫著、中央公論社、1969年)

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