カテゴリー「ノンセクション」の記事

瑠璃の光、秋に満ち◆「浄瑠璃寺ノート」へのメッセージ

浄瑠璃寺というお寺があります。

本堂に九体の阿弥陀如来像を安置することから九品(くほん)寺・九体寺の通称で親しまれています。所在地は京都市木津川市ですが、アクセスは奈良からバス便を利用するのが一番便利で、どうも京都のお寺というよりは奈良のお寺というイメージが先にたってしまいます。近くにある岩船寺と合わせた一帯は当尾の里と呼ばれ、ひなびた風景の中に点在する石仏群も、私たち都会に住む人の目を楽しませてくれます。

私がこの浄瑠璃寺の名前を知ったきっかけは、『浄瑠璃寺ノート』と名づけられた一冊の本を読んだことに始まります。

浄瑠璃寺の阿弥陀堂には大学ノートが置かれ、参拝に訪れた人たちが、それぞれの思いをつづっていきました。月に2~3冊のノートがうまっていったそうです。この本は、そこに書かれた若者たちの真摯なつぶやき、うそ偽りのない心の叫びに感動した佐伯快勝住職がぜひ本にまとめたいと、1973年4月に新書版として刊行された本でした。

インターネットが世界中を結んでいる現代ならば、自分の意見や思い、考えなどを不特定多数に向かって発信する手段は、ホームページ、ブログをはじめツィッターやフェースブックと多種多様なものがあります。しかし、当時は例えば深夜放送に投稿するとか、ガリ版刷りのミニコミ雑誌を作るとかの手段しかなかったように思います(もっと内向きな人間はそれこそ日記を書いていたのでしょう)。

浄瑠璃寺を訪れた若者たちは、あるいは恋に悩み、あるいは政治活動に傷つき、他人との関わりに疲れ果てていました。

貴女が浄瑠璃寺に感激し、ゼヒ行くようにとすすめました。
私は今日、晴天の空の下、時々雪のちらつくこの寺へ来ました。
貴女がうたれたという仏様。私も見ました。
私も何度も何度も見ました。
貴女がもしやこの名ボに名を記しているのではないかとひっくりかえしたが、わかりません。
ここの奈良の地より石巻の貴女を考える私です。
仏様には貴女にまた会える日を祈りました。
貴女を私は愛しています。

高校を卒業したばかりの私には、こんな文章が心に迫ってきました。

運動も恋も勉強も全て、中途はんぱな形のままで、高校生活を終えるのがつらい。
恋も知らない。
何も知らない。
詩を書き、一瞬の時を、瞑想にふけることしかしらない。
でも、そんな青春時代でも、
何かが残ることを、心の底にここを去る。
もっとかきたかった。
又、来たい!

私が『浄瑠璃寺ノート』を読んでから40年が過ぎようとしています。今でも浄瑠璃寺阿弥陀堂の片隅には、芳名簿をかねたノートが置かれているのでしょうか。情報発信ツールが格段の進歩を遂げた現代でも、寺を訪れた若者たちは、それぞれの熱い思いや口に出せない悩みを、ノートに書きつづっているのでしょうか。

澄明な秋の日差しを浴びて山里にたたずむ浄瑠璃寺に、足を運んでみたくなる、そんな秋の一日でした。

昼 時折り雪のちらつく
末法こそ生々の源ではないのかと思いつつ

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:「浄瑠璃寺ノート」へのメッセージ(参拝者著、『浄瑠璃寺ノート』所収、文研出版、1973年)

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死者を見送る夏◆万里村ゆき子「夏のメモランダム」

今年、2011年。春から夏にかけてのほんの短い間に、私にとって大事な人たちが次々と亡くなりました。彼らと出会ったのは、1970年代――私が高校生から浪人を経て大学生だった頃。活動ジャンルはさまざまで多岐にわたっていましたが、私が彼らの作品やパフォーマンスから得たものは、今日にいたるまでの私の生き方、ものの考え方などに圧倒的な影響を与えてくれました。

亡くなられた方の名前を、時系列に挙げてみましょう。

田中好子(4月21日)、団鬼六(5月6日)、原田芳雄(7月19日)、中村とうよう(7月21日)、小松左京(7月26日)、前田武彦(8月5日)、ジョー山中(8月7日)……。

死者に序列をつけることは本意ではありませんが、彼らの中でも原田芳雄と小松左京の二人は別格です。

「原田芳雄のように生きたい。原田芳雄のように滅びたい」――ある一時期、私は心からそう願っていました。スクリーンの上で常に体制に牙をむき、既成概念に反発し、あれほどエネルギッシュでワイルドに輝いていた原田芳雄が、こうもあっけなく亡くなってしまうとは。最近の年齢相応の落ち着いた渋い役どころもいいですが、やはり圧巻は70年代を席巻したアウトロー=無頼の原田芳雄にトドメをさすでしょう。

演技者・俳優としての総括はこれから徐々に進んでいくことでしょうが、先日発売された雑誌『映画秘宝』10月号の特集記事「さらば、永遠のアウトロー/映画俳優・原田芳雄の軌跡」は、速報的な意味合いはあるにせよ、よくまとまっていると思います。整理されたフィルモグラフィを見ると、1968年のデビュー以来、最新主演作の「大鹿村騒動記」まで実に100本以上の映画とかかわりを持っていることがわかりました。まさに、「映画俳優」原田芳雄の真骨頂、生き様を見る思いがします。

ちなみに、私にとっての原田芳雄ベストは、主演作「赤い鳥逃げた?」「竜馬暗殺」、助演作「祭りの準備」やはり70年代前半の最もギラギラしていた頃の作品が、忘れられないようです。奇しくも亡くなる前後に、名画座シネマヴェーラ渋谷のATG映画特集上映で後者2作を見ることができたことを付記しておきます。

原田芳雄に関して忘れてはならないことがもう一つ。それは、「歌手原田芳雄」としての活動。いまや伝説となった1975年1月19日に新宿厚生年金会館大ホールで行われた「歌う銀幕スター・夢の狂宴」。ここで原田芳雄がジーンズに法被姿で登場し、ギター一本で歌った「プカプカ」「早春賦」「黒の舟唄」の3曲。あの夜、二階席の片隅で私は体中の毛が総毛立つような感動を覚えたものでした。定番の「プカプカ」や「黒の舟唄」もよかったけれど、特筆すべきは「早春賦」。文部省唱歌をあそこまでブルースしてしまう歌唱力と表現力には、もう脱帽でしたね。

ああ、それにしても今年の夏は、本当に多くの先達を見送る夏になってしまいました。そうした2011年の夏も、まもなく終わりを告げるのでしょう。死者への想いとともに逝く夏を送るには、万里村ゆき子のこんな詩がふさわしいのではないでしょうか……。

いま、夏が逝く。/若者の健康な四肢を灼き、内気な娘を情熱の女に変え、子供たちの果てしない夢に自然の輝きをあたえた、ことしの夏が逝く。/夕べ、突然の嵐がきて、一晩中荒れて去った。それは、きのうまでの海の色も浜辺のにぎわいも、みんなみんな連れていった。/怖いほどに澄みきった空を、鳥が飛ぶ。彼らも、ひとつの季節の終りを知っているのだろう。ゆっくりと、あたらしい秋に向かって羽ばたく鳥たちの中に、ぼくは確かに見た。/青春の白く美しい姿を朽ち果てた骨に変えてなお、飛行を続ける老いた一羽。それが、ぼくの未来の姿でないと、いったい誰れがいえるだろうか。

正統派のSF専門誌『SFマガジン』に、幻想的な内容ではあるけれども、新井苑子のイラストをあわせた女性詩人の連作が掲載されること自体、きわめて異例のことで、当時、ひどく困惑したことを覚えています。発売は1976年の夏――原田芳雄がスクリーンではじけていたのと同様に、田中好子はキャンディーズとしての絶頂期を迎えつつあり、団鬼六原作のSM小説は谷ナオミ主演で続々と映画化されていました。中村とうようは偏見のない音楽評を発表し、『日本沈没』でメジャーとなった小松左京は、「知の巨人」としての存在を確立していきます。不穏当発言で芸能界を干されていた前田武彦は雌伏中で、映画「人間の証明」の演技と主題歌でジョー山中が注目されるのはもうしばらくの時間が必要でした。

35年の月日の流れの果てに、この場を借りて、逝ってしまった彼らのご冥福をお祈りする次第です。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:「八月のメモランダム」(万里村ゆき子著、『SFマガジン』1976年8月号、早川書房、1976年)

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旅人のブルース◆永六輔『懐かしい恋人たち』

市民運動華やかなりし1970年代末期の77年、既成の政党に飽き足らず、市民による市民のための政治を取り戻そうという理想のもと、一つの政治団体が結成されました。その名は、革新自由連合。80年の参議院総選挙には代表の中山千夏が立候補し、みごと当選しています(選挙戦突入前夜の総決起集会には私も参加し、そこでシュプレヒコールを挙げている姿が、その夜のテレビニュースで放映されたのを見たときは驚きました)。この革自連、もともとは雑誌『話の特集』編集長だった矢崎泰久、同誌の常連執筆者だった永六輔を中心に、女優で歌手の中山(矢崎と二人でユニット「狭間組」を名乗る)、指揮者の岩城宏之、歌手の小室等・長谷川きよし、イラストレーターの妹尾河童、ジャーナリストのばばこういちら、錚々たるメンバーが月に一度集まって上野・本牧亭で催していたイベント「政治寄席」がその母体となっています。私は、毎月というわけにはいきませんでしたが、結構足繁く通っては、月替わりで登場するメンバーの話やパフォーマンスを楽しんでいました。その中でも私の一番のお目当てが、永六輔でした。

その昔、ある会社の入社面接で尊敬する人物は誰かと問われた際、私が迷うことなく挙げたのが永六輔と小松左京の二人でした。私は大学で歴史を専門としていましたが、永からは市井に生きる庶民・市民レベルの極小(ミクロ)の視点で歴史や文化を見る方法を学び、小松からは人類とか地球とかの宇宙レベルの極大(マクロ)の視点で歴史や文明を考える方法を学んでいたと自負していました。

さて、私と永六輔との出会いは、NTV系列で放映されていたテレビ番組「遠くへ行きたい」にさかのぼります。「遠くへ行きたい」自体は、今も続いている長寿番組ですが、当時は日曜日の夜遅くに放映されていたマイナーな番組でした。夜更かしが固く禁じられ、10時過ぎには就寝という家庭でしたので、私は自室でこっそり、中古の白黒テレビでこの番組を見ていました。

最初のうちは永六輔だけだった旅人も、俳優の伊丹十三・渡辺文雄、作家の五木寛之といった個性的な面々が加わってきました。やれ温泉だ、やれグルメだ、という昨今のちょうちん持ち的なおべんちゃら番組とは一線を画す番組構成は、その回の旅人ならではのテーマのもと、主体性を持った旅をするのを、カメラは黙って追いかけるというような作りだったと記憶しています。忘れられないのは、五木がみずからの作品『青春の門』の舞台、筑豊炭田を訪ね、主人公よろしくオートバイでボタ山を駆け上がる回です。訥々とした五木の語り口と、アクティヴな演出がみごとでした(制作・演出はテレビマンユニオン!)。また、永が旅人となる回の最後で必ずすれ違う謎の美女のミステリアスな魅力も忘れられません。

ときあたかも、〈ディスカバー・ジャパン〉キャンペーンによる、名所巡りだけの物見遊山的な団体旅行ではない、もっと個性的な少人数の旅がブームになりつつあった頃でした。ここではないどこかに、何かもっと魅力的なできごとと素敵な人が待っているのだ――見知らぬ土地での見知らぬ人との出会いを予感させる一人旅は、私を酔わせるのに十分でした。永六輔作詞・中村八大作曲の番組主題歌「遠くへ行きたい」に歌われた「愛する人とめぐり逢」うことに胸躍らせながら、私は深夜急行に飛び乗ることになるのです。

永六輔が私に与えた影響は、一人旅への誘いだけではありませんでした。戦後の混乱期に青春時代を過ごした多くの若者がそうであるように、永もまた熱狂的な映画少年・映画青年でした。TBS系ラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」、あるいは自著を通して、永は映画の魅力についても熱く語ってくれました。評論家の講釈じみた解説ではなく、永が語る映画の魅力は、みずからの体験に即したきわめて私的なものだったように思えます。それは、その映画が作られた時代の世相や社会状況、同時代を生きた自分との関わりなど、大げさに言えば、時代と切り結ぶ映画そのものの位置づけを試みていると言ってもいいのではないでしょうか。

そう、例えば、1952年のアメリカ映画「真昼の決闘」に関しては、こんなふうに……。

それがいい役でもなんでも保安官て嫌いです。警官や機動隊を恐がるのは後めたいことをしているからだというバカなことをいう役人がいる国に住んでいるからです。「俺が法律だ」というような表情しか出来ない貧しさを嫌うわけではありません。そういう顔をして正義の味方ぶるところがいやなのです。デモに参加する勇気の中にはこうした胸のバッチ同様、その武装にものをいわせる役人根性を無視する姿勢があります。法律を信ずるのではなく、人間を信じることが人間の生き方ではないでしょうか。権力を振りまわし、権力で押さえにかかる役人を嫌うのは人間として当然です。警官や機動隊をみて恐いと思うのは人間らしく生きているからです。彼等の暴力を知っているからです。

かつて永六輔は、ことあるごとに父忠順と自分との関係を、二人の生年から、「昭和天皇と皇太子(の生年)と同じ」と語っていました。そこには戦時中の疎開暮らしというトラウマを持つ永の、奇しくも同じ年齢の親子として戦中・戦後を生き抜いた二組の親子に対する複雑な心境が反映されていることは明白でしょう。すでに忠順も昭和天皇もこの世の人ではなくなりましたが、そおれでもなお、永が生涯を通じて意識し続けるであろうこの国の天皇制というシステムは何ら変わっていません。1959年のフランス映画「墓に唾をかけろ」に寄せた以下の文章が、永の思いの全てを雄弁に語っています。

人間が神様になる必要はないのです。神様を人間にするべきなのです。

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

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出典:『懐かしい恋人たい』(永六輔著、大和書房、1973年)

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夢の名残り◆「パック・イン・ミュージック」への投書など

40年前、1969年1月19日。東京都文京区本郷の東京大学本郷キャンパス。天を摩して屹立する安田講堂に立てこもる学生に対して、昨日18日からその強制排除行動に出た機動隊は、午前7時、二日目の攻撃を開始します。1960年代後半から全国の大学や学園で個別に闘われていた闘争が、全学共闘会議(いわゆる全学連)として、より組織だった闘争へと発展していく全共闘運動の中に、東大闘争、あるいは東大紛争と呼ばれる象徴的な闘いがありました。68年1月の医学部無期限ストに始まる学生たちの東京大学駒場キャンパス・本郷キャンパスでの闘争は、大学当局との間にいっさいの妥協も解決も見ることなく、ついに翌69年1月の機動隊構内導入を経て、そのクライマックス、世に言う「安田講堂攻防戦」を迎えるのです。

学生によりロックアウトされ、教職員はもとより一般人の立ち入りが禁じられた東京大学の駒場・本郷両キャンパスに、唯一出入りを許された写真家がいます。2007年に新潮社から発売された、この「闘争を内部から撮影した唯一の写真家」渡辺眸の写真集『東大全共闘1968―1969には、ロックアウトが進むキャンパスでの学生たちの日常や、闘争の生々しい場面などを写した写真が数多く掲載されています。3963021  モノクロ写真に切り取られた2年間の時間は、単なる報道写真の枠を超えた貴重な歴史資料だと思います。闘争に参加した学生たちのスナップ――ときになごやかで、ときに真摯な彼ら、彼女らの表情に向き合ってしまうと、あるいは安田講堂の壁に書かれたあの有名な落書きの写真を目にしてしまうと、もう何も評論家めいた論評やコメントを口にすることはできなくなってしまいます。

連帯を求めて孤立を恐れず/力及ばずして倒れることを辞さないが/力を尽さずして/挫けることを拒否する

1969年1月19日、夕刻。二日間にわたる攻防戦は、安田講堂からの最後の解放放送――「われわれの闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者のみなさん、われわれの闘いは決して終わったのではなく、われわれにかわって闘う同志の諸君が再び解放講堂から時計台放送を行なう日まで、この放送を中止します」をもって幕を閉じます。

思えば、1968年から72年までの、間に70年の日米安保条約更新をはさむ5年間は、日本現代史の決定的な分岐点だったと思います。60年安保闘争を引き継ぎつつ、それ以上に高揚し、変革がすぐそこ、手を伸ばせば届くところにまで近づいていたはずの全共闘運動は、この東大闘争の終焉を境に大きく後退し、70年安保闘争の敗退もあり、闘争の手段も目的も劇的に変わっていきます。そして行きついた72年のあさま山荘事件。自壊して、不完全燃焼のままに終わらざるを得なかった革命幻想、権力とそれに追随するマスコミによって一方的に狂気の殺人者集団と貶められ烙印を押された戦士たち。愛と自由、連帯と平和の世界実現に向けて流れていた流れは、ついに時代の分水嶺を越え、一気にその反対側――現代の管理社会、格差社会へとつながる、誰かさんたちにとってつごうのよい方向に向かって流れの方向を変えてしまうのです。

攻防戦の舞台、安田講堂は、今でも東京大学のシンボルとして、本郷キャンパスにその威容を残しています。熾烈な攻防戦で廃墟となった講堂は改修され、火炎ビンや石くれが飛び交い、シュプレヒコールと怒声がうずまき、放水とガス弾の煙が充満した講堂前広場もすっかり整備され、40年前の面影はもうどこにもありません。入学式や卒業式ともなれば、講堂をバックに写真に収まる笑顔の親子、スーツやはかま姿の男女学生で華やかににぎわっています。講堂中央塔の大時計は、これからも時を刻み続け、時の流れは止まることも後戻りすることも決してないでしょう。40年という月日の流れは残酷で、闘争の名残りはもうどこにもありません。――当時の深夜放送に寄せられ投書のように、ただ、闘争に参加した者たちの夢の名残りのみを残して……。

俺ワァ/俺のロマンが――ほしンだ/そこだけ小さくはじらって あとは/大声で 一本調子の/アジ演説の中へ/隠れた 人/ボサボサの髪と ヘルメット/会った時/バリケードのすみに寄って/通れヨオと言ったわ/やさしいのね と思ったわ/わたしもロマンが欲しい/わたしのロマンが――/でも あなたは闘い取ろうとする/眠りこんで 感覚の世界を/愛するわたし 違いすぎる/ロマンが/美しい心を ひたひたにするだろう/自惚れのわたしは/醒めてしまったのだと/決めてしまった/目をあげて/極めようと挑み続けている/あなた と/遠すぎるのに/違った言葉しか持っていないのに/なお/愛のようなものを求め合って/見つめてしまう

ゲバ棒を持つには/美しく 細い手をしてた/タオルの下には やさし過ぎる/笑いがあるのを わたしは知っていた/けど/赤や黄や 旗がなびいている/運動会の時みたい ハタハタと/風に踊って 楽しさがないだけの/何も変わっていない/変革はどこなの わたしも昨日のまま/ただあなたがいないだけの いちょうの木の下

今宵、ひとり酒場の片隅で夜光の杯を掲げ、「君のセリフに乾杯!」

セリフの履歴

出典:東大闘争時に安田講堂の壁に書かれた落書き(著者不詳、渡辺眸撮影『東大全共闘1968―1969』写真掲載、新潮社、2007年)。「パック・イン・ミュージック」への投書(北川ちとえ著、『もう一つの別の広場』所収、ブロンズ社、1969年)

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